往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

14  その2「英国人の見た中学校の事情」

 明治三十七年(一九○四)、インドでミッションスクールの校長をしていた英国人ウィリアム・ヘースティング・シャープ(Wiliam Hastings Sharp)は来日して、約半年にわたって日本の教育事情を視察しました。その報告書においても、中学教員の異動の多さが指摘されています。

 教員の人事異動が、能率と生徒の関心によくない影響を及ぼしていることに私が関心を持つようになったのは、ある日本人によってであった。(中略)しかし、ひところの師範学校や中学校では、教員の平均勤務年数はわずか二年であった。この種の学校が急増したために、教員への需要も高まり、半ば独立した校長の競争心によって給与のいい学校を求めて、あっちこっちに異動するようになったからである。最終的には文部省が教員の給与を平準化し、不当な昇進を規制している。
 (W・H・シャープ著、上田学訳『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』、第十五章「教員」、行路社、一九九三 傍線筆者)

 引用文中に、「ひところの師範学校や中学校では、教員の平均勤務年数はわずか二年であった」という記述があります。
 はたして本当にそのような実態があったのでしょうか。
 そこで、一例として私の母校広島大学教育学部の前身である広島高等師範学校の卒業生のケースを挙げてみます。 
 広島高等師範学校は、中等学校教員の不足を補うために、明治三十五年(一九○二)に創設され、同三十九年(一九○六)に最初の卒業生を出しました。  
 

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(創設時の廣島高等師範学校, 「広島大学史の小径」より http://home.hiroshima-u.ac.jp/hua/public/hirodai_forum/372.html

 そのうち国語漢文部を卒業した第一期生の七名について、同年以降、各年次の「廣島高等師範学校一覧」によって、卒業後十年間の勤務校を調べたのが次の表です。 

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 これを見ると、七人の平均異動回数は四回となっています。
 漱石『野分』の主人公ではありませんが、H・T氏のように「北陸→四国→北陸→九州」と流して歩かれた(?)方もいらっしゃいます。
 もちろん、これは卒業後数年~十年前後のことで、それ以後もこれほど転勤が多かったとは考えにくいことではあります。
 しかし、全国的には、先に見たW・H・シャープの指摘も、決して大げさとは言えない実態があったのではないかと思われます。
 当時、高等師範学校の卒業生と言えば、帝大出と並ぶ中等学校教員中のエリートであり、全国各地から、まさに「引く手あまた」だったのでしょうね。 

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(英語部第1回卒業生、明治45年『廣島高等師範学校一覧』より)

 

 

第14章参考文献 *国立国会図書館デジタルコレクション 

夏目漱石二百十日・野分』新潮文庫 二○○四年W・H・シャープ、上田学訳『ある英国人の見た明治後期の日本の教育』行路社 一九九三年
*『全国公私立中学校に関する調査』明治三十七年十月調 文部省普通学務局

『蜻蛉会会員名簿』平成27年 兵庫県立小野高等学校
*『廣島高等師範学校一覧』(明治三十九~大正五年)