往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

16  その3「中学校と師範学校③」

  次に、「(師範学校生の)中学に対する屈折した感情」について考えてみます。
 これは、言い換えると「劣等感」ということになるでしょうか。
  

f:id:sf63fs:20190318171058g:plain

   明治三十三年の「学校系統図」(文部科学省ホームページ  http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318188.htm)から分かるように、中学校卒業者には高等学校を経て帝国大学へ、エリート街道まっしぐらという可能性がありました。

 それに対して師範学校はというと、学校制度上は傍系に位置づけらており、行き止まりの「袋小路」的性格をもたされた学校でした。 

 卒業後も、先の中学校との対比で言うならば、「出世しても小学校の校長どまり」だったのです。

 国木田独歩の『富岡先生』(明治35年:1902)には、師範学校を出て27歳の若さで校長になっている細川繁が次のように嘆く場面があります。

   彼は「我もし学士ならば」という一念を去ることが出来ない。幼時は小学校に於て大津も高山も長谷川も凌(しの)いでいた、富岡の塾でも一番出来が可(よ)かった、先生は常に自分を最も愛して御坐った、然るに自分は家計の都合で中学校にも入いる事が出来ず、遂に官費で事が足りる師範学校に入って卒業して小学教員となった。天分に於ては決して彼等二三子(にさんし)には、劣らないが今では富岡先生すら何とかかんとか言っても矢張り自分よりか大津や高山を非常に優った者のように思ってお梅嬢さんに熨斗(のし)を附けようとする!

(注)大津ー大津定二郎、法学士。内務省出仕が内定。

 どんなに優秀であっても家庭が貧しければ、中学から高等学校、帝国大学という道は閉ざされていた時代。一青年教師の悲哀がストレートに表現されています。

 田山花袋田舎教師(明治42年:1909)は逆のパターンです。

 この小説では、中学を出ながら貧しさのために志を得ず、小学校の代用教員している主人公・林清三が同僚の師範学校出の教員をどう見ているかが描かれているところがあります。

 行田や熊谷の小学校には、校長と教員との間にずいぶんはげしい暗闘があるとかねて聞いていたが、弥勒(みろく)のような田舎の学校には、そうしたむずかしいこともなかった。師範出の杉田というのがいやにいばるのが癪(しゃく)にさわるが、自分は彼奴等(きゃつら)のように校長になるのを唯一の目的に一生小学校に勤めている人間とは種類が違うのだと思うと、べつにヤキモキする必要もなかった。

(注)林清三ー3月11日の番外記事でとりあげましたが、モデルは熊谷中学校第2回卒業生(明治34年)の小林秀三。弥勒高等小学校の教員を勤めましたが、3年後に結核で死去しています。

 この作品は「中学vs師範」という視点にとどまらず、学校行事(天長節)、視学制度、教員給与、講習会など、日露戦争下の教育事情を知る上で大変興味深く、若い頃から何度か読み返しました。