往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ63 江戸時代中期 大坂の儒学者・龍田善達

江戸時代の中期、17世紀の後半から18世紀前期にかけて、大坂(大阪)で儒学を教えた
山国出身の学者がいました。

 

龍田善達
  

龍田氏、字(あざな)は在寛、播州加東郡山国邑(むら)(1)の人。幼より学を好みて京師(けいし)に遊学し、深く伊藤仁斎(2)の説を信じて中島浮山(3)に親炙(しんしゃ)し、以て業を修む。
既にして浪華(4)に移り、帷(とばり)を下ろして生徒に授く。
教鞭を執ること実に二十余年、著録殆ど千を数ふに至ると云ふ。
人と為り恬易(てんえき)、能(よ)く艱苦(かんく)に堪へて営利を思はず、故(ゆえ)に人之を称す。(以下略)
・歿年 享保十九年(5)六月二十三日 行年五十八歳
墓所 大阪市東淀川区 濱村墓地(6)

※墓碑銘の漢文を読み下し、新字体に改め、句読点を施しています。

 

【意訳】
龍田善達氏、通称は在寛といい、播州加東郡山国村の出身である。幼い頃から学問を好み、京都に遊学中は伊藤仁斎の学説を信じ、中島浮山を師として学問を修めた。
その後、大阪に移り、私塾を開いて門人に学問を授けた。
20余年にわたって教鞭を執り、著した文章は千を数えるということだ。
その人柄は恬淡で、生活の苦しさにもよく堪えて、名利を追うことがなかった。
そのために、人々は彼を讃えた。
       

伊藤仁斎Wikipedia

 

龍田善達墓石(大阪市南浜墓地)

父・龍田善右衛門の墓碑銘には、山国村で農業を営み、妻を鳥居氏から娶り、四男一女があったこと。在寛(善達)は末っ子とあります。
善右衛門寛永9年 (1632)生まれ、貞享2年(1685)に53歳で亡くなり、諡(おくりな)を「道節居士」で、その墓所は山国村西の栗林にあるとされています。

 

この時代に龍田姓を名乗っていることや、京都に遊学経験があることなどから、龍田家は相当に裕福であったに違いありません。

明治12年(1879)当時、山国村戸長を務めた龍田吟右衛門という方のお墓が熊野神社西にあります(下の写真)が、其の他の古い墓石は風化して読めません。

ひょっとして、その中に善右衛門のお墓もあるかも知れません。



(注)
1 現在の兵庫県加東市山国。
2 寛永4年(1627)~ 宝永2年(1705)は、江戸時代の前期に活躍した儒学者・思想家。京都の生まれ。日常生活のなかからあるべき倫理と人間像を探求して提示した。江戸前期の儒者古義学派の創始者。 (Wikipedia
3 1658-1727 江戸時代前期~中期の儒者
万治元年生まれ。中島棕隠の曾祖父。京都の人。伊藤仁斎にまなぶ。講説を業とした。享保12年6月10日死去。70歳。名は義方。字は正佐。別号に訥所,孤山。著作に「四書通解」「傍訓五経正文」など。
4 今の大阪市
5 西暦1734年 『大阪人物辞典』は寛文8年(1668)生まれで、享年66歳としている。
6 大阪市北区豊崎1丁目 南浜墓地    傍には父・龍田善右衛門夫妻と妹・波のお墓もあります。 

(参考・引用文献)
石田誠太郎 著『大阪人物誌』卷上,石田文庫,1936年.
『大阪人物辞典』 清文堂、2000年
 「関西大学 大阪都市遺産研究センター 所蔵 牧村史陽氏旧蔵写真データベース」https://yosh345.sakura.ne.jp/oldosaka3/makimura/makimura.html