常陸(ひたち)国久慈(くじ)郡高柴村(現在の茨城県久慈郡大子町(だいごまち)の庄屋・益子廣三郎ら4人は、文化9年(1812)の正月、西国三十三所巡礼の旅に出た。
この旅は、途中に伊勢参宮、さらには讃岐の金比羅(こんぴら)参りなどもあわせて八七日間、のべ道のり七三六里にも及ぶ長旅であった。益子は克明な記録を後に続く者たちに書き残し、『西国順礼道中記』と題した。
以下は、第二十六番札所・法華山一乗寺から第二十五番札所・御嶽山(みたけさん)清水寺へ向かう道中の記録である。
なお、本文は大子町史編さん委員会『西国巡礼道中記』(大子町史料別冊9、1986)による。※原文にはない句読点をつけて読みやすくしている。
3月7日、姫路城下の宿屋・ひろや兵助に泊まった一行は、翌日は曽根天満宮(高砂市)、石の宝殿(同)などを見物した後、北上して法華山一乗寺(加西市坂本町)に至った。
一 第廿六番播摩(ママ)法花寺 二り半
春は花夏はたちばな秋はきく いつもたへせぬのりの華山
本尊千手観音、堂九間四面。三丁程登り、奥の院四丁 程上ル。かけ作り(1)也。
切石高(く)、大からん(伽藍)也。桜盛り。茶屋壱軒有。施躰もち引申候。入口出口両方門あり。 よき御寺なり。
(法華山一乗寺本堂と三重塔 「日本の懸造り」ホームページより)
一 笠原(2) 壱り
此処(このところ)在郷(3)なり。広き所なり。いかき村(4)と(言ふ)在郷有。
一 はんじやう 一り半
このところ右同断。青野原といふところあり。
一 青野高岡(5) 廿五丁
爰(ここ)は宿屋数軒あり。此間ニ野村川舟八文宛。
一 野村(6) 廿五丁
この処宿なし。家員(いえかず)少なきところ也。遠(くに)鳥居有。(7)
一 さうの社(8) 半り
この処町屋多し。(9)宿や数軒あり。町入り口
正一位佐保大明神、御朱印五拾石、廿四ケ郷の鎮守。
誠ニ大社なり。
此南の山辺ニ古城の跡(10)あり。木なし村、三く さ村といふ在郷あり。
一 むませ(11) 二里
この処在郷なり。道あしく込(み)入(り)申候。
一 かも川(12) 一り
此処宿やあり。是より上り坂拾八丁難所也。
一 第廿五番播摩(ママ)の清水(13) 壱り
あはれみやあまねき門に 品々の何をかなみに爰に清水
本尊千手観音、寺領六拾石、石堂九間四面、かけ作、寺拾八ケ寺、薬師堂、あミた堂、多宝堂、田村堂。
此処景地なり。門前ニ茶屋壱軒、餅売り申候。市原へおり申候。
一 西国第二十六番播磨法華山(一乗寺) (石の宝殿から)二里半(約十キロ)
(ご詠歌)春は花夏は橘秋は菊 いつもたえせぬ法の華山
ご本尊は千手観音(正しくは聖観世音菩薩)で、本堂は九間四方。三百メートル余り登り、奥の院までは四百メートルほど登る。本堂は懸け作りである。
本堂は切石が高く、大伽藍である。ちょうど桜は盛りである。茶屋が一軒ある。「接待(?)もち引申候」(意味不明)入り口、出口の両方に門がある。良いお寺である。
一 笠原村 二里(約8キロ)
ここは農村で、ずいぶん広い所である。繁昌村との間に、いかき村という農村がある。
一 繁昌村 一里半(約6キロ)
右に同じ。(ここを過ぎると)青野原(新田)という所がある。
一 青野原新田高岡村 二十五丁(約2,7キロ)
この村には宿屋が数軒ある。次の野村との間に加古川の渡し船があり、渡し賃は一人八文(300円程度か)である。
笠原から繁昌 赤は国道372号
高岡から社までの巡礼道(黄色)渡しの位置は推定。地図は明治43年作製のもの。 一 野村 二十五丁(約2、7キロ)
この村には宿屋はない。家の数も少ない所だ。遠くに鳥居が見える。
一 佐保の社村 半里(約2キロ)
ここには商家が多い。宿屋も数軒ある。町の入り口には、「正一位佐保大明神」が鎮座している。幕府より御朱印をもって社領五十石(正しくは十石)を給されている。当地方二十四ケ郷の鎮守である。本当に大社の趣がある。
ここの南側の山のあたりに古城跡がある。その後の街道沿いには木梨村、三草村という農村がある。
寛延2年(1749)の「加東郡細見図」 一 馬瀬村 二里(約8キロ)
ここも農村である。道路が悪く、込み入っております(意味不明)
一 上鴨川村 一里(約4キロ)
ここは宿屋がある。ここから本堂まで上り坂は十八丁(約1.96キロ)でなかなかの難所である。
一 第廿五番播摩(ママ)の清水(寺) 一里(約4キロ)
あはれみやあまねき門の品々に 何をかなみのここに清水
本尊千手観音、寺領六十石。石堂(?)九間四方、懸け作り。塔頭は十八ケ寺。
薬師堂、阿弥陀堂、多宝堂(?)、田村堂(?)
ここは景色の素晴らしい所である。門前に茶屋が一軒あり、餅を売っております。麓の市原村ヘと下山しました。
この後、一行は市島(丹波市)、福知山(京都府)を経て、二十八番札所・成相山成相寺をめざして旅を続けた。
(注)
1 崖(がけ)などの高低差が大きい土地に、長い柱や貫(ぬき)で床下を固定してその上に建物を建てる建築様式。
2 現在の加西市東笠原町・西笠原町あたり。
3 農村のこと。
4 下河辺拾水 『西国順礼細見記』(寛政3年・1791)には「坂本村、笠原新田、うづらの新田、この辺広野なりしも、今は松ばやし、新田となる」に続いて「いかき村 はんじやうより野むら 五十丁」とあり、村々の位置関係から見ると、鶉野と繁昌の中間にある「宮木村(みやきむら)」のことで、「みやき」を「いかき」と聞き間違えたのではないだろうか。益子たちが、この『細見記』を参考にした可能性もある。
5 現在の加東市高岡地区。当時の正式名称は「青野原新田村」だったが、後の安政の頃には「青野原新田高岡村」と記した古文書もある。
6 明治初年まで加古川右岸の、現在の加東市河高(当時は安取村)と左岸の野村の間に渡し船があった。近世、当村の村高は513石で、当地方では中規模の村であったようだ。

(「ふるさと加東の歴史再発見」より)
7 巡礼道は野村から東に向い、貝原村(加東市貝原)、鳥居村へと続く。鳥居村に村の名前のもとになった佐保神社の鳥居が今もある。野村からは2キロ弱の道のり。
8 旧県社・佐保神社の東側に開けた在郷町で、近世には「佐保の社村」、「佐保村」、または「そうの社」と呼ばれた。現在の加東市社地区。

9 商家の数は、寛政11年(1799)では127軒。天保3年(1832)では88軒だった。(『社町史・第二巻本編2』)宿屋(旅籠屋)は嘉永7年(1854)に9軒とある。(同前)
10 佐保の社村の南にある古城跡とは「松尾城跡」だが、それほど知られた存在ではなく、「山辺」でないことから、詳細は不明。
順礼道中、山辺の古城跡で有名なのは、三草山城跡であるが、「此南」ではなく、社村からは東北の方角である。

11 馬瀬村(加東市馬瀬(うまぜ))のこと。街道沿いの小さな山村であるが、かつては順礼宿があったという。
12 現在の加東市上鴨川(かみかもがわ)。各方面からの登り口の下には順礼宿がいくつもあったという。西方から来た一行は西坂を登ったものと思われる。


13 清水寺については、不正確な記述もある。
御詠歌・・・現代語訳参照。本尊・・・十一面観世音墓厚 寺領・・・六十五石(『加東郡誌』)
その他にも(?)を付けた建物は『加東郡誌』にも見当たらない。
清水寺(きよみずでら)は、兵庫県加東市にある天台宗の寺院。山号は御嶽山(みたけさん)。本尊は十一面観世音菩薩。西国三十三所第25番札所。同じ西国三十三所の第16番札所である京都市の音羽山清水寺と区別するため播州清水寺と呼ばれる。
札所本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:あはれみや普(あまね)き門(かど)の品々(しなじな)に なにをかなみのここに清水 (Wikipedia)

2月28日、第二十四番札所・紫雲山中山寺(兵庫県宝塚市)に参詣した一行は以下のような寺社・名所旧跡等を訪れた後に、高砂から船で四国(丸亀)に渡っている。
西宮ー生田神社(神戸市)ー兵庫ー須磨寺(神戸市)ー人丸神社(明石市)ー尾上(加古川市)ー高砂
金比羅参りを終えた一行は、船で下津井(岡山県)に渡り、後は山陽道を岡山・有年(赤穂市)とたどり、3月7日に姫路の城下に着いた。
第二十七番札所・書写山圓教寺に参詣の後は、その足で第二十六番札所法華山一乗寺へと向かわずに、曽根天満宮・石の宝殿(高砂市)を訪れた。
これは高砂での乗船前に見物できなかったために、そのようにしたのであろう。
法華山一乗寺から清水への道中記としては、「そうの社」(佐保の社村)の記述がやや詳しめである他は、他の順礼道中記と大きな違いはない。
ただ、各地の城下町では城や町の様子を、必ず数行にわたって記述しているが、街道沿いにあり、すぐ前を通過したはずの三草藩丹羽候の陣屋については、全く触れていない。1万石で、しかも定府の譜代大名であったことから、地元の三草には限られた数の貢租関係の役人(藩士)しかおらず、役所も人目を引く程の規模ではなかったのであろう。







































