往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希を過ぎた暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

『西国順礼道中記』(文化9年・1812)にみる加西・加東の巡礼道と札所

常陸(ひたち)国久慈(くじ)郡高柴村(現在の茨城県久慈郡大子町(だいごまち)の庄屋・益子廣三郎ら4人は、文化9年(1812)の正月、西国三十三所巡礼の旅に出た。
この旅は、途中に伊勢参宮、さらには讃岐の金比羅(こんぴら)参りなどもあわせて八七日間、のべ道のり七三六里にも及ぶ長旅であった。益子は克明な記録を後に続く者たちに書き残し、『西国順礼道中記』と題した。
以下は、第二十六番札所・法華山一乗寺から第二十五番札所・御嶽山(みたけさん)清水寺へ向かう道中の記録である。
なお、本文は大子町史編さん委員会『西国巡礼道中記』(大子町史料別冊9、1986)による。※原文にはない句読点をつけて読みやすくしている。

 

3月7日、姫路城下の宿屋・ひろや兵助に泊まった一行は、翌日は曽根天満宮(高砂市)、石の宝殿(同)などを見物した後、北上して法華山一乗寺(加西市坂本町)に至った。

一 第廿六番播摩(ママ)法花寺      二り半
      春は花夏はたちばな秋はきく  いつもたへせぬのりの華山
    本尊千手観音、堂九間四面。三丁程登り、奥の院四丁  程上ル。かけ作り(1)也。
 切石高(く)、大からん(伽藍)也。桜盛り。

    茶屋壱軒有。施躰もち引申候。入口出口両方門あり。  よき御寺なり。 

    (法華山一乗寺本堂と三重塔 「日本の懸造り」ホームページより)

一 笠原(2)       壱り
     此処(このところ)在郷(3)なり。広き所なり。いかき村(4)と(言ふ)在郷有。
一 はんじやう     一り半
  このところ右同断。青野原といふところあり。
一 青野高岡(5)    廿五丁
  爰(ここ)は宿屋数軒あり。此間ニ野村川舟八文宛。
一 野村(6)        廿五丁
     この処宿なし。家員(いえかず)少なきところ也。遠(くに)鳥居有。(7)
一 さうの社(8)     半り
  この処町屋多し。(9)宿や数軒あり。町入り口
  正一位佐保大明神、御朱印五拾石、廿四ケ郷の鎮守。 
       誠ニ大社なり。
  此南の山辺ニ古城の跡(10)あり。木なし村、三く        さ村といふ在郷あり。
一 むませ(11)  二里
    この処在郷なり。道あしく込(み)入(り)申候。
一 かも川(12)  一り
  此処宿やあり。是より上り坂拾八丁難所也。  
一 第廿五番播摩(ママ)の清水(13)             壱り
       あはれみやあまねき門に 品々の何をかなみに爰に清水
      本尊千手観音、寺領六拾石、石堂九間四面、かけ作、寺拾八ケ寺、薬師堂、あミた堂、多宝堂、田村堂。
 此処景地なり。門前ニ茶屋壱軒、餅売り申候。市原へおり申候。

 

一 西国第二十六番播磨法華山(一乗寺)        (石の宝殿から)二里半(約十キロ)
   (ご詠歌)春は花夏は橘秋は菊 いつもたえせぬ法の華山
 ご本尊は千手観音(正しくは聖観世音菩薩)で、本堂は九間四方。三百メートル余り登り、奥の院までは四百メートルほど登る。本堂は懸け作りである。
本堂は切石が高く、大伽藍である。ちょうど桜は盛りである。茶屋が一軒ある。「接待(?)もち引申候」(意味不明)入り口、出口の両方に門がある。良いお寺である。
一 笠原村       二里(約8キロ)
    ここは農村で、ずいぶん広い所である。繁昌村との間に、いかき村という農村がある。
一 繁昌村     一里半(約6キロ)
    右に同じ。(ここを過ぎると)青野原(新田)という所がある。
一 青野原新田高岡村    二十五丁(約2,7キロ)
 この村には宿屋が数軒ある。次の野村との間に加古川の渡し船があり、渡し賃は一人八文(300円程度か)である。

笠原から繁昌 赤は国道372号

高岡から社までの巡礼道(黄色)渡しの位置は推定。地図は明治43年作製のもの。

一 野村      二十五丁(約2、7キロ)
     この村には宿屋はない。家の数も少ない所だ。遠くに鳥居が見える。
一 佐保の社村     半里(約2キロ)
  ここには商家が多い。宿屋も数軒ある。町の入り口には、「正一位佐保大明神」が鎮座している。幕府より御朱印をもって社領五十石(正しくは十石)を給されている。当地方二十四ケ郷の鎮守である。本当に大社の趣がある。 
  ここの南側の山のあたりに古城跡がある。その後の街道沿いには木梨村、三草村という農村がある。

寛延2年(1749)の「加東郡細見図」

一 馬瀬村        二里(約8キロ)
     ここも農村である。道路が悪く、込み入っております(意味不明)
一 上鴨川村     一里(約4キロ)
     ここは宿屋がある。ここから本堂まで上り坂は十八丁(約1.96キロ)でなかなかの難所である。
一 第廿五番播摩(ママ)の清水(寺)             一里(約4キロ)
   あはれみやあまねき門の品々に 何をかなみのここに清水
  本尊千手観音、寺領六十石。石堂(?)九間四方、懸け作り。塔頭は十八ケ寺。
 薬師堂、阿弥陀堂、多宝堂(?)、田村堂(?)
 ここは景色の素晴らしい所である。門前に茶屋が一軒あり、餅を売っております。麓の市原村ヘと下山しました。

この後、一行は市島(丹波市)、福知山(京都府)を経て、二十八番札所・成相山成相寺をめざして旅を続けた。

 

(注)
1 崖(がけ)などの高低差が大きい土地に、長い柱や貫(ぬき)で床下を固定してその上に建物を建てる建築様式。
2 現在の加西市東笠原町・西笠原町あたり。
3 農村のこと。
4 下河辺拾水 『西国順礼細見記』(寛政3年・1791)には「坂本村、笠原新田、うづらの新田、この辺広野なりしも、今は松ばやし、新田となる」に続いて「いかき村 はんじやうより野むら 五十丁」とあり、村々の位置関係から見ると、鶉野と繁昌の中間にある「宮木村(みやきむら)」のことで、「みやき」を「いかき」と聞き間違えたのではないだろうか。益子たちが、この『細見記』を参考にした可能性もある。

5 現在の加東市高岡地区。当時の正式名称は「青野原新田村」だったが、後の安政の頃には「青野原新田高岡村」と記した古文書もある。
6 明治初年まで加古川右岸の、現在の加東市河高(当時は安取村)と左岸の野村の間に渡し船があった。近世、当村の村高は513石で、当地方では中規模の村であったようだ。
 

鳥居村にある文化6年(1809)再建という佐保神社西の鳥居
(「ふるさと加東の歴史再発見」より)

7 巡礼道は野村から東に向い、貝原村(加東市貝原)、鳥居村へと続く。鳥居村に村の名前のもとになった佐保神社の鳥居が今もある。野村からは2キロ弱の道のり。 
8 旧県社・佐保神社の東側に開けた在郷町で、近世には「佐保の社村」、「佐保村」、または「そうの社」と呼ばれた。現在の加東市社地区。

佐保神社参道入り口の道標(「左 本つけ山」)

9 商家の数は、寛政11年(1799)では127軒。天保3年(1832)では88軒だった。(『社町史・第二巻本編2』)宿屋(旅籠屋)は嘉永7年(1854)に9軒とある。(同前)

 10 佐保の社村の南にある古城跡とは「松尾城跡」だが、それほど知られた存在ではなく、「山辺」でないことから、詳細は不明。
順礼道中、山辺の古城跡で有名なのは、三草山城跡であるが、「此南」ではなく、社村からは東北の方角である。

上三草から見える三草山(『加東の文化財』加東郡教委・1986)

11 馬瀬村(加東市馬瀬(うまぜ))のこと。街道沿いの小さな山村であるが、かつては順礼宿があったという。
12 現在の加東市上鴨川(かみかもがわ)。各方面からの登り口の下には順礼宿がいくつもあったという。西方から来た一行は西坂を登ったものと思われる。

清水寺西坂の丁石 本堂まで十八丁とある(「播磨の道標」ホームページ)

同上

13 清水寺については、不正確な記述もある。
御詠歌・・・現代語訳参照。本尊・・・十一面観世音墓厚 寺領・・・六十五石(『加東郡誌』)
その他にも(?)を付けた建物は『加東郡誌』にも見当たらない。

清水寺(きよみずでら)は、兵庫県加東市にある天台宗の寺院。山号は御嶽山(みたけさん)。本尊は十一面観世音菩薩。西国三十三所第25番札所。同じ西国三十三所の第16番札所である京都市の音羽山清水寺と区別するため播州清水寺と呼ばれる。
札所本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:あはれみや普(あまね)き門(かど)の品々(しなじな)に なにをかなみのここに清水    (Wikipedia)

御嶽山清水寺(『播磨名所巡覧図絵』文化元年・1804)

2月28日、第二十四番札所・紫雲山中山寺(兵庫県宝塚市)に参詣した一行は以下のような寺社・名所旧跡等を訪れた後に、高砂から船で四国(丸亀)に渡っている。 
 

西宮ー生田神社(神戸市)ー兵庫ー須磨寺(神戸市)ー人丸神社(明石市)ー尾上(加古川市)ー高砂

金比羅参りを終えた一行は、船で下津井(岡山県)に渡り、後は山陽道を岡山・有年(赤穂市)とたどり、3月7日に姫路の城下に着いた。
第二十七番札所・書写山圓教寺に参詣の後は、その足で第二十六番札所法華山一乗寺へと向かわずに、曽根天満宮・石の宝殿(高砂市)を訪れた。

これは高砂での乗船前に見物できなかったために、そのようにしたのであろう。

 

法華山一乗寺から清水への道中記としては、「そうの社」(佐保の社村)の記述がやや詳しめである他は、他の順礼道中記と大きな違いはない。
ただ、各地の城下町では城や町の様子を、必ず数行にわたって記述しているが、街道沿いにあり、すぐ前を通過したはずの三草藩丹羽候の陣屋については、全く触れていない。1万石で、しかも定府の譜代大名であったことから、地元の三草には限られた数の貢租関係の役人(藩士)しかおらず、役所も人目を引く程の規模ではなかったのであろう。

江戸中期の俳諧紀行文にみる西国巡礼道 ー下郷蝶羅『続多日満句羅』よりー その2(鶉野から清水寺)

十六日。曇昼頃より晴。六つ過(1)出立。清水寺まで六里の間挟箱(はさみばこ)(2)もたせ、此間(このあいだ)野むらのわたし(3)加古川の上にて船わたし、其外(そのほか)小河あまたありといへども板投げわたして橋あり。
繁昌(はんじよう)(4)高岡(5)鳥居町(6)佐保のやしろ、いづれも宿屋あり。わけて佐保の社は能(よ)(き)所也。しかし一ぜんめしはなし。昼焚(ひるたき)いたすべし。
清水(7)の麓(ふもと)より登り十八丁。石檀(いしだん)けはしく、おかや(8)道につかれ、同行の情にて大悲閣(だいひかく)へ詣てける。是(これ)も西国の札所也。下り坂拾四丁尚(なお)けはしく、おかや駕籠(かご)に乗せる。東西の麓に雑器(ざつき)折敷(おしき)など細工(さいく)する也。さかしたをひらきと云ふ。宿屋も有(9)
立杭(たちくい)、五拾丁。鹿間(しかま)や七郎左衛門といふにやどる。宿よし。此所(ここ)村中陶器を焼く。(10)白米一升六□□清水より丹後(たんご)の成合(なりあい)(11)へわかれ道あり。二十一弐里とぞ。

 

十六日、天気は曇りで昼頃からは晴れ。午前6時過ぎに宿を出た。鶉野から清水寺までは六里(約24キロ)で雇った人足に挟み箱を持たせた。この間に、野村の渡しといって、加古川を舟で渡す。その他にも小河川は幾つもあるが、板を渡して橋にしている。
繁昌、高岡、鳥居、佐保の社村、どの村にも宿屋がある。中でも佐保の社村は良い所である。だが一膳飯屋はないので、どこかの宿屋で昼食を用意させてないといけない。
清水寺へは麓の登り口から十八丁(約1.9キロ)石段が険しく、一行の内、おかやは道中の疲れが出て、一行の情けで本堂(大悲閣)へお参りした。このお寺も西国二十五番の札所である。下り坂の十四町(約1.5キロ)は登りよりもさらに険しく、おかやを今度は駕籠に乗せた。東西の麓の村では雑多な器や折敷(小さな木製の皿)などを作っている。坂下の村を平木という。宿屋もある。
立杭村までは約5キロ余り。鹿間屋七郎左衛門という宿屋に泊まった。良い宿である。ここでは村中が陶器を焼いている。白米が一升六□□である。清水寺から丹後(京都府)の成相寺への分かれ道がある。ここから二十一~二里だということだ。

 

鶉野から佐保の社 「天保国絵図 播磨国」より

同上 国土地理院地図より

佐保の社から清水寺 (「天保国絵図 播磨国」)

同上(地理院地図より)

(注)
1 午前6時すぎ。
2 着替えの衣服や手回り品を入れた浅い長方形の箱。宿場や立て場で雇った人足に運ばせた。一行は女性が多く、旅の資金も潤沢であったのだろうか、あちこちで人足を雇っている。
3 「野村の渡し」は、加東郡野村(加東市野村)と同河高村安取(こうたかむらあつとり)(加東市河高)の間を渡したものである。
   

「左 きよみつ」と刻んだ加東市河高(安取)の道標(天保11年・1840)
高岡から坂を下り、ここを直進すると加古川の堤防に突き当たる。 

吉田省三「加東郡野村の渡し場について」(「論集 東播磨研究2 加古川流域の渡し場・渡し舟」1987)には次のような説明がある。
 

加東郡野村の渡し場は、丹波道(京街道)が加古川を渡って、西国(特に姫路)に行くための重要な渡しである。京都から亀岡・園部・天引峠をへて、篠山・古市・今田・鴨川・三草・木梨を通り社に達した街道は、この野村の渡しか太閤渡し(新部の渡し、現小野市新部町)で加古川を渡り、印南野をこえて姫路に到達した。北播磨での加古川の渡し場としては重要なものである。

ちなみに、文化9年(1812)の『西国順礼道中記』(大子町、1986)によれば、「野村の渡し」の渡し賃は「八文」(今の250~300円程度)と記されている。
4  玉城幸男『女性の西国巡礼三十三度行者 : 尼サンドについて』(1993)には、明治時代の前半期まで、繁昌村、鶉野村に各一軒の宿屋があったという史料が掲載されている。
5 加東郡青野原新田村が「高岡村」と改称になったのは、明治初年のことであるが、それ以前の古文書にも「青野原新田高岡村」と記したものがあることから、一般に「高岡」という呼称が行われていたのであろう。

なお、高岡地区には、かつて街道沿いに「巡礼道□□」という小字が今も残っている。
6 街道を西から東へたどり佐保の社村へと到着しているので、社村から約800メートル西にある「鳥居村」(現・加東市鳥居)の誤りであろう。宿屋があったいうのも考えにくい。

佐保神社参道入り口にある「左 本つけ山 右 きよみ川」の道標(寛政9年・1797)

7  清水寺(きよみずでら)は、兵庫県加東市にある天台宗の寺院。山号は御嶽山(みたけさん)。本尊は十一面観世音菩薩。西国三十三所第25番札所。同じ西国三十三所の第16番札所である京都市の音羽山清水寺と区別するため播州清水寺と呼ばれる。
札所本尊真言:おん ばざら たらま きりく そわか
ご詠歌:あはれみや普(あまね)き門(かど)の品々(しなじな)に なにをかなみのここに清水    (Wikipedia)
本堂は、「金堂」や「大悲閣」などと呼ばれていて、こちらに本尊、聖観音菩薩が安置されている。    

「播磨名所巡覧図絵」(文化3年・1804)より「御嶽山清水寺」

8 同行のうちの女性の一人と思われる。
9 東側の麓は平木村(江戸時代には東坂本村とも称した時期がある。現・加東市平木)、西側は上鴨川村(現・加東市上鴨川)。大正12年(1923)の『加東郡誌』には、平木村の説明中に、「伊勢山田にて学んだ村民が豊富な木材資源を利用して、重箱を製造し始め、「伊勢重」と呼ばれていた。盛んであったのは約六〇年前だが、今も農業の傍ら指物職を営む村民がいる」という意味の記述がある。
「宿屋有」というのは、巡礼宿のことであろう。かつては清水寺へ登る坂が五つあったが、登り口のあたりには、明治・大正の頃まであわせて8軒の巡礼宿があったとされている。
天保11年(1840)の巡礼案内記によると、坂本村には三軒の宿があったという。(『西国三十三所巡礼道』(歴史の道調査報告書 第一集)兵庫県教育委員会、1991)
 10  丹波立杭焼(たんばたちくいやき)は、兵庫県丹波篠山市今田地区付近で生産される陶器。主に生活雑器を焼いてきた。丹波焼、または立杭焼(もしくは立杭窯(たちくいがま)ともいう。起源は平安時代末期にまで遡るといわれ、「六古窯」の一つに数えられる。(Wikipedia)
11 京都府宮津市にある西国に十八番札所の成相(なりあい)山成相寺のこと。

 

蝶羅の一行は、西国巡礼目的の旅ではないが、西国二十七番札所(書写山圓教寺)から二十六番(法華山一乗寺)、二十五番(御嶽山清水寺)と、いわゆる「逆打ちのルート」をたどっている。
安永の頃、すでに西国巡礼の案内記が幾つも出版されており、今回のルートでいえば、繁昌から高岡までの街道については、「此の間も道悪く不用心也」と記されているという。(『加西の道標』加西市教育委員会、1994)
たしかに、繁昌から高岡にかけては、現在国道372号が通っており、ここ数十年の間に道沿いには工場や倉庫、長距離トラック便のターミナルなどが出来たが、その昔は青野原の荒寥とした原野が一面に広がっているところであった。
また、これは本作品より数十年の後になるが、文政12年(1829)の道中記(『新補細見指南車』) には、高岡(青野原新田村)について、「稲荷神社の前後に宿が多い」と記されているともいう。

佐保の社(現・加東市社)から清水寺までの巡礼道の距離は約14.5キロ。木梨、三草、山口、馬瀬、上鴨川の集落を三草川に沿って丹波道(京街道)を歩く。江戸時代には、これらの村々にも巡礼宿があったと伝わっている。
途中の三草(現・加東市上三草)には三草藩丹羽候(1万石)の陣屋があり、その跡に建つ「やしろ国際学習塾」前の旧街道には、今も松並木が一部残っている。(下の写真)

かつての丹波道に沿って建つやしろ国際学習塾(加東市上三草)

御嶽山清水寺は標高550メートルの山上にあり、書写山の371メートルでも相当な登り坂があるが、こちらは一段と厳しい登りであっただろう。
ここまでの道中で疲れの溜まった女性陣には辛かったことと思われる。

佐保の社方面からやって来た一行が登ったのは、いわゆる「西坂」のようで、今も「是ヨリ清水 本堂迄 一八丁」と刻んだ町石が今も民家の軒下にある。

大正中期、西坂を駕籠で登る様子(『兵庫の絵はがき』のじぎく文庫。1977)


下りは、次の目的地・立杭の位置からすると、二十四番札所・中山寺方面からの登り口であるいわゆる「本坂」を下ったものであろう。

丹波道(西国巡礼道)では、明治・大正の頃まで、「白装束においづる」という数名の巡礼姿のグループがよく見られたということだが、蝶羅たちの一行は、伊勢参りを別にすれば異例の大人数であった。
ただ、裕福な商人でもあったことから、鶉野から清水まで人足に挟箱を持たせたり、佐保の社では、「一膳飯屋がないので(どこかの宿屋で)昼食を用意させよう」などという記述があり、金銭的には十分な余裕のあったことがうかがえる。

江戸時代中期の俳諧紀行文にみる西国巡礼道 ー下郷蝶羅『続多日満句羅』よりー その1(法華山から鶉野)

江戸中期の俳人・下郷蝶羅(しもさと ちょうら、享保8~安永5年・1723~1776)は、尾張国(愛知県)鳴海海宿の酒倉(千代倉)を営む下郷家に生まれた。同家はかつて松尾芭蕉が逗留したことから、一家を挙げて門人となっており、祖父の下里知足は「鳴海の六俳仙」の一人として知られた。

下郷家本家(Wikipedia)登録有形文化財に指定されている



蝶羅も、俳諧を大島蓼太、岡田米仲、横井也有に学んだ。俳諧紀行に「松のわらひ合歓のいひき」「続多日満句羅」などがある。
安永2年(1773)3月13日、蝶羅はじめ一族24名は上方へ向けて出立したが、この旅行は80日余にも及ぶ団体旅行であった。
伊勢参宮を皮切りに、吉野では花を見、その後大和から高野山を経て大阪に出た一行は、播磨路を西へ向かい書写山へと登った。

その後は西国三十三所巡礼道(丹波街道)を東へたどって、法華山一乗寺(第二十六番番札所)から清水寺(第二十五番番札所)に参拝。有馬温泉に滞在した後は京見物を楽しみ、義仲寺(大津)を最後に、中仙道を経て、5月1日に帰国した。(この年は閏3月があった)本文は三万六千余字にも及ぶ随分と詳細な旅日記となっている。
なお、「続」とあるのは、祖父の知足に上方紀行があるからという。

 

以下の本文は、加西市にある法華山から加東市にある清水寺への二泊三日の道中記(その前半)である。

法花山(1)迄書写(2)より平地にして爰(ここ)に到て石檀登ること百五十段ほどにて、観世音を拝す。西国二十六番の札所なり。

 山はみな妙法蓮花つゝしかな  蝶羅
 うくひすや生れなからの法華山  和水

裏門へ通りぬけ、鶉野(うずらの・3)へ五拾丁(4)道よろし。巡礼やうのもの疫疾に犯されて、路傍に悩みふしゐるもの爰かしこに見へてあはれなり。所々川あれども板投げわたしあり。こよひはうづら野にやどる。所まばらに農家ありて、高砂屋といふにとまり、おのおの旅のあはれを知る。

法華山一乗寺(兵庫県バス協会ホームページ)

法華山一乗寺まで書写山からは、平地続きであったが、ここに来て石段を百五十段程登って、聖観世音菩薩を拝した。ここは西国二十六番の札所である。

 山はみな妙法蓮花つゝしかな  蝶羅
 うくひすや生れなからの法華山  和水

 裏門から出て、ここから鶉野への約5キロの間は割と道が良い。途中、巡礼風の者が病気に冒され、道端で苦しみ横たわる姿があちこちに見られ、気の毒である。道中、所々に川が流れているが、板の橋が架けわたしてある。今晩は鶉野に泊まることにした。農家があちこちに点在していて、高砂屋という宿に泊まったが、一行の者はそれぞれに旅の哀れを感じた。

 

(注)
1 加西市坂本町にある天台宗・法華山一乗寺。書写山からは20キロ余り。西国第二十六番札所として知られ、三重塔は国宝に指定されている。ご詠歌は「春は花 夏は橘 秋は菊 いつも妙なる法(のり)の華山(はなやま)」
2 姫路市書写にある天台宗・別格本山の圓教寺。 西国第二十七番札所で、「西の比叡山」とも呼ばれる。
3 現在の加西市鶉野町。旧海軍鶉野飛行場跡の「sora加西」が有名になった。
江戸時代初期の延宝七年(1679)に新田開発されて、「鶉野新家村」と称した。『加西市史』『角川日本地名大辞典28兵庫県』などでは、元禄の頃、二軒の遊女屋があり、遊女八人がいたとされている。
現在は平凡な農村であるが、西国三十三所巡礼道(丹波道)沿いにあり、宿屋もあったと見える。

「天保国絵図 播磨国」より関係部分

現在の地理院地図、かつての巡礼道は国道372号とほぼ合致する

文化3年(1806)に建てられた鶉野の道標(鶉野南公民館北の道沿い)
「(正)右 ほつけ山・ひめじ、(左)左/そね/高砂道、(右)左 きよ水」と刻まれている。
(「播磨の道標」ホームページより)

今回取り上げたルートは、姫路や竜野へ行く際に、年に何度も車で通行する所である。

特に、鶉野については神戸大学の附属農場横の南北の道路がかつての丹波道(巡礼道)であることを最近知った。

今では、鶉野飛行場跡で随分と知られるようになったこの地であるが、台地上に展開する平凡な農村であり、意外なことに、注3で記したように元禄の頃に遊郭があったという。(江島其碩『けいせい色三味線 鄙・湊の巻』元禄14年・1701)今も遊女塚とか江戸時代中期の古い墓石が存在しているということだ。

上に挙げた道標に見るように、この村は東西の巡礼道と南北の街道(高砂~加西・多可)が交差するいわゆる交通の要衝であり、それなりの需要(?)もあったのだろうか。

摂津国(大坂)西成の商人が新田開発をした(延宝7年・1679)ということで、そのあたりも関係しているのかも知れない。ただし、根拠となるような史料はないが・・・。

女流文学者の紀行文にみる江戸時代中期の加東郡 ー社村・三草・山国妙仙寺・闘竜灘ー その五

■ 闘竜灘へ

やがてまかでて、爰(ここ)よりはほど近きよしなれば、瀧野(たきの)(1)といふ所に行きたり。瀧川(たきかわ)のありさまは、いひやらん方なくめづらしう、はるばると目も及ばぬまで、ひろき所に、いと大きなる巌(いわお)、かずかずにそばだち、上より流るゝ水の、おちかゝるわたり(2)は、ただ白絹(しらぎぬ)を、あまた引きちらしたらん心地して、白玉(しらたま)の散り乱るるさま、似るものなく面白し。鮎(あゆ)のさかのぼるをとるとて、ちひさき網してすくふも、ことに興あり。すなはち調じつゝ、それを肴(さかな)にてしひ聞こゆるも、めづらしう、とりどりにてもてはやし、濁(にご)れる酒も、所がらは、仙人(やまびと)の家なる、紫(むらさき)の霞(かすみ)(3)に思ひなして、酌(く)みそゆるばかりなり。山風(やまかぜ)のはげしう吹出(ふきい)づるまゝに、瀧(たき)のよどみまさり、波の音おどろおどろしうて、寒ささへ殊(こと)の外(ほか)なるものから、ひとへなる旅衣(たびごろも)は、せんかたなきまでにて、毛もいよ立ちつゝ、わりなきを、しひて盃(さかずき)にまぎらはしつるさへ、をかしうげにしくものなき心地して、帰らん事も忘るゝばかり、うち乱れそそろきて、

 数里飛簾砕玉来 霞鈎捲盡石催嵬

 春深却覚寒風急 檻外雪濤起晩雷

(くれ)近う三草に帰りて、今夜は野上の主の方にとまりぬ。

やがて暇乞いをして、ここからは近いということで、滝野(1)という所に行った。滝のように流れる川(2)の様子は言葉で表現しようがないほど珍しく、はるばると目の届かないほど広い所に、ずいぶんと大きな岩がたくさんそばだっており、上流から流れ落ちる水が、岩に落ちかかるあたりは、まるで白い絹を引き散らしたように見え、白い水の玉が散り乱れる様子は、比べるものがなく面白い。
鮎が遡上するのを捕るということで、小さな網ですくう様も、特に面白い。すぐに捕れた鮎を調理しては、それを酒の肴として、むやみと勧め申し上げる様も、めずらしく、それぞれに褒めそやし、濁り酒も、場所が場所だけに、仙人の家にある紫色の霞(3)と見立てて、次々とお酌をしてつぎ足してばかりいる。
山からの風が激しく吹き始めるにつれ、滝のよどみがまさり、波の音も気味悪くて、その上に寒さも格別なので、一重の旅装では、どうしようもないほどで、体中の毛も逆立って、どうにもこらえようがないが、無理に酒で紛らわしていることまでもが、趣があり、本当にこれ以上ない良い気分で、帰ることも忘れるぐらいに心乱れて落ち着かなく、次の漢詩を詠んだ。
   

 数里飛簾砕玉来 霞鈎捲盡石催嵬  春深却覚寒風急 檻外雪濤起晩雷

 夕暮れ近くなって、この日は野上氏の宅に泊まった。

  

(注)
(1)現在の加東市上滝野地区。妙仙寺からは北へ約6キロの道のり。
 (2)加古川上流の加東市上滝野にある名勝・闘竜灘のこと。
川床いっぱいに広がる奇岩怪石の間を激しい水流が縫うように流れ、轟音とともに白波を立てる迫力ある景観で知られ、江戸時代の半ば頃から、ここを訪れる文人墨客が多かった。
幕末の漢詩人・梁川星厳(やながわせいがん)が、文久2年(1864)に詠んだ七言絶句「闘竜灘」と題した漢詩から、広くこの名称が知られるようになった。

『播磨名所巡覧図絵』(文化元年・1804)より「滝野川」

(3)昔から、仙人は霞を食って生きていると言われるが、中でも最高レベルの仙人が食べる霞は紫色とされた。

闘竜灘(「かとうトリビューン」)

翌日、三草をあとにした一行は、天神(現・加東市天神)、竹原の宿(現・三木市吉川町)、道場川原(現・神戸市北区)を経て名湯・有馬温泉へと向かった。

 

闘竜灘のことを、地元の人達は「滝野の滝」と呼んでいる。

昔から、近隣の小学校では遠足の行き先の定番で、筆者も小学校以来何度も訪れたことがある。

上の写真左手に鮎料理を食べさせる滝寺荘という料理旅館がある。戦前は三軒の料理旅館があって、京阪神から「鮎狩り」を楽しもうという観光客で賑わったということだ。

加古川の舟運にとって、この地は最大の障壁であったが、文禄3年(1594)に地元滝野村の豪農であった阿江与助が中心となって開鑿を行い、加古川上流からの高瀬舟の通行が可能になった。今も川の畔に阿江与助の銅像が建っている。

阿江与助像(「かとうトリビューン」)

 

江戸中期の女流文学者の紀行文に描かれた佐保の社・三草・山國妙仙寺・闘竜灘ー その四

 

■ 妙仙寺へ墓参

 

(2)氏栄公墓前にて

寺はいとしめやかなる地をしめて、御堂(みどう)佛(ほとけ)のかざりなど、うるはしうあらまほしくて、御法(みのり)の声もまぎるゝことなう、しげき木陰(こかげ)は風の音さへへだてたり。聖(ひじり)もうとからぬゆゑありて、おろかならぬ心見え給ふれば、いさゝか心もおかず、何となき世の物がたりをさへ聞こえさせたり。
御墓(みはか)はとりわけ、いつくしうしつらはれつるを、見まゐらするにも、おろかなる涙の、さしぐむやうにて、限りなかりしおほんかへりみ(1)の、忘れがたく、昨日(きのう)ばかりと思ひしも、いつしか七めぐりの月日うつりぬる(2)事の、さらに驚かるゝのみなり。御まへにしばし額(ぬか)づきて、
 七年の春のかすみをわけて来て月のいりにし跡(あと)をとひつる

のどかに所々見めぐりつるに、庭には桜のなほ盛りなるが、ことにめづらしう、春もいまはとおぼゆる頃にて、人間(じんかん)の四月(3)と、まづ思ひ出るまゝに、
 よしや世の春こそつきめ山寺の御法の花はうつりやはする

 

(注)
(1)荒木田麗女夫妻は、故丹羽氏栄公に経済的窮地を救ってもらった。本ブログその一を参照。
(2)作者たちは、安永6年(1777)3月末に妙仙寺を訪れており、明和8年(1771)7月の氏栄公死去から7年めにあたる。
(3)白居易の詩「大林寺桃花」にある下の句をふまえたもの。
 人間四月芳菲尽(人間の四月は芳菲尽きるも)
    山寺桃花始盛開(山寺の桃花始めて盛開)
 意味:人間社会では、陰暦四月ともなると春の花がすっかり散ってしまうのに対し、ここ山寺(廬山の大林寺)に登ると、桃の花が今まさに満開を迎えている。

中谷与助『新選播磨名所図会』(明治26年・1893)より 
右上隅に「霊廟」とあるのが、丹羽家廟所

妙仙寺はたいそう閑静な地にあって、境内のお堂や仏像なども、立派で好ましく、読経の声も澄み渡り、生い茂った木陰では風の音までも隔てている。
ご住職とも親しい間柄で、並々ならぬ真心がうかがえるので、少しも心の隔てなく、なんと言うこともない世間話までお話申し上げた。
中でも氏栄公のお墓はたいそういかめしく整えられているが、墓前で拝み申し上げると、並々ならぬ涙がにじみ出るようで、この上なく賜った御恩(1)が忘れがたく、まるで昨日のことのように思っていたが、いつの間にか七年の月日が経ってしまった(2)ことに、改めて驚かされるばかりである。墓前でしばらく頭を垂れて
  七年ぶりに春霞をかきわけて、今日は殿様のお隠れになった御跡(お墓)を訪ねたしたことです
ゆっくりとあちらこちらを見て歩いていると、境内には桜の花がまだ盛りであるのが、特に珍しく思われ、「春ももう終わりか」と思われる頃で、「人間の四月」(3)という白居易の詩句がまず思い出されたので、
  たとえ世間の春が終わったとしても、この山寺の御法の花(桜)が散ったりしようか(いや散ったりしない)

 

氏栄公墓碑(吉田省三『播州三草藩史(立藩編)』1984)

上に挙げた妙仙寺の鳥瞰図を見つけた時は、意外の感を禁じ得なかった。

60数年前の園児時代には、境内で遊んだこともあったのだろうが、その後西側に園舎が建ち、30年程前に保護者として何度も訪れたものの、境内域の配置についてはよく知らなかった。

お盆のお参りに住職父子が来られた際に交わした短い会話によると、同寺も明治維新以後は丹羽家の庇護もなく、また、廃仏毀釈の影響でかなり荒廃していたという。

明治7年(1874)に、「妙仙寺中興の祖」と称えられた25世金岡俊隣和尚が入山し、寺院修復に尽力されたということである。

 

 

女流文学者の紀行文に描かれた江戸中期の加東郡 ー社村・三草・山国妙仙寺・闘竜灘ー その三

■ 妙仙寺へ墓参

 

(1)三草から山國村への道中

廿九日は、雨もよべよりはれて、風さわやかに打(うち)吹(ふ)きたり。山國(やまくに)村(1)なる妙仙寺(みようせんじ)(2)に、先侯(せんこう)(3)の御墓(みはか)拝(おが)み奉(たてまつ)らんとて、昼つかたより出立(いでた)つに、あるじの主は、此ごろ浪速(なにわ)に旅立(たびだち)給ひぬべかりしを、かうまで来つるによりてなん、しばしとどまり給ひにし。今日はかならずと、用意し給ひ、まづ妙仙寺にわたりまして、そこなる聖(ひじり)をもいざなひ行給ふよしなれば、しばしのいとま聞えて、又浪速にてこそは聞えめと、かへすがへす契(ちぎ)り置きつゝ、さい立て出たり。しるべなる人をさへそへ給ひしかば、いとうれしう、ゆめ覚束(おぼつか)なからず、道のほどもことに見所(みどころ)おほく、はるかなる野原にわけ入れば、道もせに躑躅(つつじ)のさき乱れたる、目もかがやくばかり、紅(くれない)の濃き薄き、若草の緑にはえて、誠に錦(にしき)をしきみちたらんやうなり。曇(くもり)なき日かげさへうつろひて、もてはやされたる色あひ、ことさらにめでたう見わたされて、

  からにしき紐(ひも)とく松の下つゝじ夕日も春のいろにうつりぬ

寒食(かんしよく)(4)の家にはと、めづらしげなき口ずさみも、例の身の癖(くせ)ぞかし。

 

二十九日は、空も昨夜から晴れて、風が爽やかに吹いている。山国村(1)にある妙仙寺(2)に先代藩主(3)のお墓にお参り申し上げようと、昼頃から出発したが、主人の林氏は、最近大坂に出発なさるはずであったのを、私たちがこのように訪問したので、しばらく延期なさっていた。
今日こそは必ず出発と旅の用意をなさり、まずは妙仙寺にいらっしゃり、そこの御住職をお誘い申し上げて出立なさるということなので、しばしのお暇乞いを申し上げ、また大坂でお会いしましょうと、繰り返しお約束して先に出発した。道案内の人まで付けてくださったので、たいそう嬉しく、少しも心細くはない。道中は見るべきところも多く、はるばる続く野原に入っていくと、道いっぱいにツツジが咲き乱れている様は、見とれるほど華やかで美しい。紅色の濃いのや薄いのが、若草の緑に映えて、本当に色とりどりの華やかな織物を敷き詰めたようである。曇りのない日の光までも色あせていって、引き立てられた色合いは、ことさらに素晴らしく見渡され、
    唐錦のひもをほどくように、松の下のツツジがほころび、夕日までも春の色に染まってしまったなあ

(火食を禁忌している最中の)「寒食の家」(4)では、深紅のツツジの花を、燈火と見誤り、焚いてはいけない火かと驚くでしょうー特に珍しくもない和歌を詠んでしまうのも、いつもの私の悪い癖である。

三草から山国への推定ルート

三草から山國村妙仙寺までの距離は約6キロ(一里半)。整備された街道・丹波道を木梨村・社村と経由(上の❶)したか、藤田村を経由して野中の道(上の❷)を歩いたかのいずれかであろう。文中の描写からは、後者のような気もする。

 

(注)
(1)筆者の住む現在の加東市山国(やまくに)地区。当時は加東郡山國村。
(2)曹洞宗・大椿山妙仙寺  
妙仙寺(みょうせんじ)は、兵庫県加東市山国にある曹洞宗の寺院。三草藩主の一色丹羽氏の菩提寺で、愛知県小牧市にある福巌寺の末寺である。
本尊    釈迦牟尼仏
創建年    明応6年(1497年)
開山    来鳳一覆
開基    丹羽氏従
中興年    寛延元年(1748年)
中興    丹羽薫氏
丹羽氏が播磨国加東郡三草の地に移封となった寛保2年(1742)から6年後の寛延元年(1748年)に、妙仙寺は播磨の山国村へ移り、寺領として50石を給された。
そのため妙仙寺は、兵庫県加東市山国と愛知県日進市岩崎町の両方に存在している。
一色丹羽氏は、当時は江戸定府の大名となって以後は、江戸の浅草にあった海雲寺を墓所とし、播磨の山国村の妙仙寺では一色丹羽氏歴代の霊牌を祀った。
丹羽氏栄は大坂定番を勤めていた時に大坂城玉造口の屋敷で没したため、山国村の妙仙寺に埋葬された。そのため氏栄の墓のみが存在している。(Wikipediaより)

(3)三草藩第二代藩主・丹羽氏栄(にわうじひで・享保元年~明和8年:1716~1771)のこと。
初代藩主・薫氏(しげうじ)の長男として生まれる。享保18年12月に従五位下に叙任する。宝暦7年、父の死去で跡を継ぐ。宝暦10年5月に大番頭、明和元年6月に大坂定番(じようばん)となる。明和8年7月に死去した。享年56。跡を養子の氏福(うじよし)が継いだ。

丹羽家廟所の石門扉(『社町史第二巻本編2』)

(4)
『和漢朗詠集』上巻にみえる源順(みなもとのしたごう)の下の詩句をふまえている。 
夜遊人欲尋来把 
寒食家応折得驚 
夜遊(やゆう)の人は尋ね来たりて把(と)らんとす
寒食(かんしよく)の家には折り得て驚くべし 「春・躑躅」)
「(真っ赤に咲いた躑躅が火のようです)その深紅の花を、夜遊ぶ人は燈火と誤って折り取ろうとするでしょう。(火食を禁忌している最中の)寒食の家では、焚いてはいけない火かと驚くでしょう」
寒食とは、中国の古い風習としての寒食節(春分から15日目をいう。中国では先祖の墓参をする日である。この日の前後は寒食といって火を用いない料理を食べる)を指す。

現在の本堂(ホームページ「お寺の風景と陶芸」より)

 

妙仙寺は昭和の初め頃、農繁託児所を始められた。戦後に椿山保育圓を開園され、現在に至っている。筆者や子どもたちも同園でお世話になった。現住職は筆者より一歳年上の29世金岡英明師である。

女流文学者の紀行文に描かれた江戸中期の加東郡 ー社村・三草・山国妙仙寺・闘竜灘ー その二

 

■ 社から三草へ

(1)林某氏宅にて

此(こ)の日やがて三草(みくさ)に至れり。爰(ここ)は年頃(としごろ)たのめ聞えさせつるおほん方※のしらせ給へる所なれば、殊(こと)にむつましく、はたそこにいまそかりける林(はやし)何(なに)がしの主(ぬし)※※なん、もとよりのむつび殊更なれば、まづ訪ひつるに、日頃待ち聞こえ給へるよしにて、ねもごろにいたはり給へるが嬉しう、すなはちより打解けて、こゝらおぼつかなき物語も、又こたび見めぐりつる所々のありさまも言残さで聞こえ出でたり。

※三草藩第二代藩主・丹羽氏栄(にわうじひで)享保元年~明和8年(1716~1771)
宝暦7年(1757年)父・薫氏(しげうじ)の死去で跡を継ぐ。宝暦10年(1760年)大番頭、明和元年(1764年)大坂定番となる。明和8年(1771)7月9日に死去した。享年56。跡を養子の氏福(うじよし)が継いだ。墓所は兵庫県加東市山国の妙仙寺。

※※林某氏・・・・・林直右衛門のことで、天明8年(1788)の時点では国元で郡奉行を勤めていた。(吉田省三『播州三草藩立藩史』1984)

 

この日はまもなく三草村に着いた。ここは長年頼み申し上げているお方※のお治めなさっている所なので、特になつかしく、また当地に住まわれている林某氏※※とは、昔からの親交がとりわけ深いので、初めに訪問したところ、普段から私たちの訪問を待っていてくださっていたということで、心をこめてお世話くださるのが嬉しく、すぐに打ち解けて、たくさんのとりとめのない話も、また、このたび見歩いたあちこちの土地の様子もすべて残さずお話申し上げた。

 

三草藩陣屋跡は「やしろ国際学習塾」となっている。前の道路は昔の丹波道。

裏手には武家屋敷が一部残っている(加東市ホームページ)

 

(2)野上某氏の訪問

野上(のかみ)何某(なにがし)の主(ぬし)※も、葦垣(あしかき)のあなたなれば、急ぎまうでんとすれど、いたう疲れて、足疼(いた)みぬれば、いと心もとなきに、あなたよりわたりおはしつる。いみじう嬉しくて、あるじの主おなじやうに聞えかはして、夜に入りぬれば、灯(ともしび)かかげ盡(つく)して、いと興ある圓居(まどい)に、旅疲(たびつかれ)も頓(とみ)になぐさみき。
此折(このおり)のありきは、難波(なにわ)を出つるより今までに、雨のおとづれもなかりしかば、いと心やすかりし。今夜なん心まめやかにそゝぎ出つれど、日頃の草枕(くさまくら)にだにあらねば、さのみうれたくも思はず。のどやかにてゐたり。
※野上某氏・・・三草藩国元留守居役の野上三太夫のこと。(平野庸修著『播磨鑑』〈播磨史談会,1909〉)

 

野上氏の家も、芦垣の向こうに見える程近くなので、急いで訪問しようと思ったが、ひどく疲れていて、脚も痛むので、たいそうじれったく思っていると、向こうから来てくださった。たいそう嬉しくて、林氏と同じく語り合い、夜になってしまったので、その後は灯火を限界まで明るくともし、たいへん楽しい団らんに、旅の疲れもすっかり慰められた。
今回の旅の道中では、難波の地を出てから今まで、雨に降られることもなかったので、たいそう心穏やかであった。今晩は、本格的に降り始めたが、普段の旅寝ではないので、それほど辛いとも思わない。落ち着いて過ごすことができた。 

 

(現在の加東市上三草地区、中央白い屋根の建物あたりに陣屋があった) 

 

3)野上某氏宅にて

あくる廿八日も、なほ晴れ間なく、春雨の気配しめやかなり。今日は、野上の主の許にもまうでて、雨をかごとに、ありきは思ひもかけず、はかなきあそびわざなどにて暮れぬ。

※はかなきあそび・・・和歌、漢詩などを作って遊んだのではないか。

翌二十八日も、まだ晴れ間が見えず、しとしとと春の雨が降る。今日は野上氏のお家を訪問して、雨を口実に、外出などは思いがけもせず、とるにたらない遊び事などで日が暮れてしまった。

 

さて、本文中「年頃(としごろ)たのめ聞えさせつるおほん方」と表現した三草藩第二代藩主丹羽氏栄公との関係が気になるところだが、研究者によって以下のようなことが明らかにされている。

・明和元年(1764)頃、檀家の減少や夫家雅の二年にわたる病臥により、家計が悪化し、借財は265両にものぼった。
・伊勢神宮外宮御師の家柄であった慶徳家も夫妻に子どもがなく、上のような家計逼迫のため養子縁組も調わず、絶家の危機に瀕した。
・そこで元々慶徳家の檀家であった三草藩第二代藩主氏栄(うじひで)に救済を頼むために夫妻は難波に転居し、揃って丹羽候の屋敷に日参したという。
・同年暮れには、宇治山田の大火で実家が全焼。同情した氏栄公は家計立て直しのための資金援助に動き、麗女名義で三人扶持一カ年三両の生活資金を与えた。これ以後、氏栄公と和歌のやりとりが続いた。麗女が文学活動に専念できるようになったのは、この氏栄公の援助のおかげであった
・氏栄公の没後も、夫の家雅は文献調査能力・考証能力を認められ、天明4年(1784)三草藩第三代藩主氏福(うじよし)公から丹羽家の系譜作製を依頼されたこともあった。

【参考文献】
雲岡梓「荒木田麗女年譜稿」(関西学院大学「日本文藝研究」巻 66 号 1,2014年10月)
伊豆野タツ「啓徳麗女」(神宮司庁広報室 編『瑞垣』(116),神宮司庁,1978年)

 

その三へ続く

 

女流文学者の紀行文に描かれた江戸中期の加東郡 ー社村・三草・山国妙仙寺・闘竜灘ー その一

安永6年(1777)2月9日から4月18日にかけて、作者の荒木田麗女は夫の家雅、従者とともに、現在の滋賀・京都・大阪・奈良・和歌山・兵庫の各県を旅し、紀行文「初午日記」(はつうまにっき)を著した。(下は雲岡梓「荒木田麗女の紀行文」より)

以下は、3月27日から4月1日にかけて、現在の加東市三草地区に住まいしていた知人の家に泊まり、山国(妙仙寺)、滝野(闘竜灘)などを訪れたときに出会った人物、風景、印象などを記した部分である。

※荒木田麗女 (一七三二〜一八〇六)は、伊勢内宮神主荒木田武遠の娘。十三歳の時に父の弟の外宮御師〔おんし〕慶徳武遇〔けいとくたけとも〕の養女となり、麗女の素質を認めた養父の勧めで和歌、連歌、漢詩を学ぶ。
二十二歳で婿養子の家雅〔いえただ〕と結婚。御師の業を継いだ家雅は、漢学の造詣が深く、麗女の才能をよく理解し、麗女に著作を勧める。麗女は伊勢では連歌の会を主催して指導者的立場にあり、夫婦揃って京都の江村北海に漢詩を学び、また、参宮に訪れる各地の文人と交流した〔雲岡梓『荒木田麗女の研究』(和泉書院2017)

 

(前夜、法華寺〈加西市の法華山一乗寺〉に泊まった一行は、次の目的地・加東市の三草をめざした)

■ 法華山から社村へ
二十七日暁(あかつき)ふかうまかでて、さとの方にたどり行きたり。今日はことに見るべき所もなきさへ、さうざうしう、空もくもらはしくて、ただ今ふり落ちぬべきがうしろめたく、おのづから道もいそがるるやうなり。

二十七日は夜明け前にお寺を出て、村里の方へと歩いて行った。今日はとくに見るほどの見どころもないので、なおさら物足りなく感じていたが、その上に空も曇りがちで、今にも雨が降ってきそうな気配が気がかりで、自然と足取りも速くなるようである。

本文は、古谷知新編『江戸時代女流文学全集』第3巻(日本図書センター、1979)』より

 

社(やしろ)といへる里は、家居(いえい)もあらまほしう、所狭(ところせ)う建て並(なべ)て、いとにぎはゝしう、往来(ゆきき)もしげうまよひて、此頃(このごろ)見なるゝ村々(むらむら)のさまならず。

社という村は、家のたたずまいも好ましく、すき間がないほど立ち並び、たいそう賑わっており、行き来する人も多く、道に迷ってしまった。ここ何日か見慣れた村々とはまるで違う。

 

社村(現・加東市社)は近世の農村に出来た商業集落・在郷町(ざいごうまち)の一つ。この当時、佐保神社の東側の通りに商家が立ち並び、近郷きっての町場を形成していた。

寛政11年(1799)当時、商家の数は127で、以下のような店があった。(『社町史』第二巻本編2)
綿屋11 米屋9 古手屋6 油屋3 魚屋2 きせる屋2 炭屋2 布屋1 たばこ屋1 花屋1 木綿屋1 紺屋1 鍵屋1 風呂屋1 あめ屋1 鍛冶屋1 八百屋1 表具屋1   等々   ※この他に、旅籠屋(はたごや)もあったと思われる。

佐保(さほ)の社(やしろ)とて、宮居(みやい)のびゝしうてあればなん、所の名にもよびけるにや。

 佐保神社といって、神社のたたずまいが見事であるので、村の名前もそのように呼んだのであろうか。

 

元禄時代頃の佐保神社とその周辺(『佐保神社誌』)

上述のように、神社の境内域の東側を南北に貫く道沿いに商家や民家が多く描かれている。

現在の佐保神社(公式ホームページより)

 

村にある大椿山妙仙寺について調べようと、暇に任せて「国立国会図書館デジタルコレクション」で「妙仙寺」をキーワードにして検索しているうちに、この作品に遭遇した。

一般にはあまり知られていない作者だが、2003年のセンター試験(当時)古文の問題に、この人の擬古物語が採られており、二十数年前のことだったが、記憶の片隅に残っていた名前であった。

 

その二へ続く

日露戦争戦没者への特別賜金

前回の投稿から約五ヶ月が経過してしまった。田んぼは稲が青々と茂り、出穂を待っている。一方、たまの雷雨も素通りし、まとまった雨は2週間近く降っていない。

 

『加東郡誌』(1923)によると、明治37年から38年(1904~05)にかけての日露戦争に、加東市の旧社町域からは56人が出征し、33人が戦没している。(うち17人が病死)注1

そのうち、当山国地区(山国村)からは次の3人が出征し、2名が戦病死とある。

・井上百松 陸軍歩兵上等兵 勲八等 功七級
・岡井清太郎 陸軍輜重輸卒(しちようゆそつ) 明治三十七年五月二十六日 廣島予備病院に於いて病死(26歳)
・出井龍太郎 陸軍輜重輸卒  明治三十八年八月二十六日 開原兵站病院に於いて病死(不明)   

さて、このうち出井龍太郎氏については、「官報 6757号」(1906年01月11日)に以下の記事が見つかった。 
   

兵庫縣加東郡社村ノ內山國村七番屋敷 出井藤藏 故陸軍輜重輸卒出井龍太郞 明治三十七八年戰役ノ功ニ依リ特ニ金貳百貳拾圓ヲ賜フ
   

(続いて「官報 1907年04月09日」によると、勲八等に叙せられ、さらに従軍記章が父に交付されている)

「輜重輸卒」(しちょうゆそつ)とは聞き慣れない呼称だが、これは旧日本陸軍で、輜重兵の指揮のもと食糧・被服・武器・弾薬などの軍需物資を前線へ輸送する任務に就いた兵卒を指す語であった。彼らには、銃も支給されず、『輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょ、とんぼも鳥のうち』という戯(ざ)れ唄があったほど、第一線で戦わない輜重兵は軽視される存在であった。   
実際に、「現役は3ヶ月限定、地位は二等卒の下、一等卒や上等兵への進級もなし」であったという。
徴兵検査で「甲種・乙種」に漏れた比較的体力や条件が劣る者、あるいは補充兵などが充てられ、歩兵第一主義の陸軍において「一人前の兵隊ではない」と不当に軽視される傾向があった。
なお、前述のように旧社町域からは56人が出征したが、うち2割近い9人が、この輜重輸卒であった。
 

国木田独歩『戦地写真帖:鴨緑江戦闘』(1904)より
義州街道をゆく近衛輜重輸卒隊の糧食運搬の様子

『画報近代百年史8』(国際文化情報社、1952)より

 

出井龍太郞氏の父・藤藏氏に支給された二百二十円は戦死・戦病死者の遺族への「特別賜金」というものであった。
  

 将校 二千六百円

 曹長 七百五十円
 軍曹 六百九十円
 伍長 六百十円
 

 上等兵 五百二十円
 一等卒 四百七十円
 二等卒 四百四十円
 

 輜重輸卒 二百二十円

なんと、兵士の最下級・二等卒の半額という扱いであった。

ちなみに、当時珍しかった大学卒の初任給はおおよそ月額50円前後とされることが多く、日露戦争当時の一円は今の五千円~一万円程度とみてよいのではないかと思うが、戦没者遺族への弔慰金としてはあまりに低い額ではなかっただろうか。

 

注1 『社町史第二巻本編2』の第3章「近代 社の生活」では、町域の犠牲者は戦死16、戦病死14の計30人であったとしている。

注2 藤本義秀調査・編集『殉国英霊芳名録』記載の死亡年月日とは違っている。

明治の司法界で活躍した旧三草藩士・福原直道 その5

帝国議会では、政府と議会が予算案をめぐって真っ向から対立し、明治24(1891)年12月に衆議院が解散されました。

○明治25年(1892)39歳

第1回総選挙(明治23年)における官憲の干渉を風刺した
フランス人画家ビゴーの絵(ジャパンアーカイブズより)

第2回総選挙では内務省(品川弥二郎内相)による露骨な選挙干渉が行われ、各地で起きた騒動で全国で25名もの死者を出すという歴史に残る選挙となりました。

 県内でも、同年2月12日に神戸へ遊説に訪れた自由党総理(総裁)板垣退助に対する暗殺未遂事件が起こるなど各地でトラブルが発生しています。

兵庫県内の候補者の一覧で、赤丸が当選者。備考欄には投票前の形勢が記されている
 (「品川弥二郎文書」ー史料に見る日本の近代ー)

福原直道が兵庫6区(当時の加東・加西・多可の三郡)から出馬するに至った具体的な経緯は不明ですが、政府は各地で吏党派とか着実派とか呼ばれる候補者を擁立して、政府に反対する民党候補者を押さえ込もうとしており、政府側の懇望を受けてのことだったのではないかと思われます。

加東郡出身の現職・高瀬藤次郞に対して、福原は「多可郡生まれ※の大審院書記長の肩書きを持つ法律学士」という触れ込みで、多可郡、加西郡中心に演説会を開き、多可郡中村(現・多可町中村)では千人もの聴衆を集めたと言われています。

※多可郡生まれは誤り。本ブログその1参照。

結果は高瀬1455票に対して福原1090票と、高瀬が再選されたものの、選挙戦前には予想できなかった結果となりました。

こうした経過をたどったことについて、『社町史』は次のように述べています。

高等官吏である福原が自由党の高瀬の選挙区に出馬し、県下の候補者中最高額(9,000円)の選挙費用を使ったとされることなどから、民党派の候補者を落選させることに力を注いだ政府の選挙干渉と何等かの関連があったのではないか。(『社町史第二巻本編2』p627)

11月
 「大阪控訴院検事」

○明治27年(1894)41歳

3月

「依願免本官」

自筆の免官願い(国立公文書館デジタルアーカイブ)

下はその際に提出された診断書で、「肺炎カタル」(気管支肺炎)と記されています。

4月21日 

弁護士登録

免官後は弁護士としての活動を開始するとともに、関西法律学校(関西大学の前身)講師を務めています。

島本篤平 (澪標航夫) 著『大阪新繁昌記』(明治27年・1894)

錦川漁郎 (大藤陽次郎) 著『浪華状師月旦 第1編』(明治29年)という書物は、大阪の弁護士の人物評をまとめたものですが、この中に福原直道も取り上げられています。
「学識深く」「東京控訴院では硬骨の名高く」「弁護士として大阪でも輿望を集めている」などと評する一方で、先の第二回総選挙に吏党の候補者として出馬したことに言及した後、「碌々たる一状師※を以て甘んずる者に非ず・・・捲土重来天下に呼号する日・・・吾人刮目して之待つ」と、政治家としての活躍が期待されると述べられています。

※状師・・・弁護士や代言人を指した当時の用語。

 

○明治31年(1898)45歳

12月5日「大阪地方裁判所所属弁護士福原直道は本月五日死去セリ」(官報)

死因などは不明ですが、免官の理由となった肺の病気が再発したのかも知れません。

 

福原直道の家族については、その1で見た兄・直哉以外では、原田道寛編『大正名家録』(二六社編纂局, 大正4・1915)という書物の中に取り上げられた久保三友(帝国軍人教育会代表、明治元~?)という人物の紹介文に「長女ふみ子は兵庫縣三草村の人福原直道の長女にして內助の功大なり」とありますが、それ以外は不明です。