往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

地区(村)の名はどう推移したのか? ーふるさと山国の今昔あれこれー

平成18年(2006年)3月に、旧加東郡の社・滝野・東条の3町が合併して加東市となり、私たちの地区も「兵庫県加東市山国」となりました。
それでは大昔から政治体制の変革、行政区画の推移、市町村合併などにより、地区の呼称はどう推移してきたのでしょうか。簡単にまとめてみました。

 

1  中世・・・播磨国福田保内山國村(はりまのくにふくだのほのうちやまくにむら)

『日本歴史地名大系』(平凡社、2005年)によれば、「山國村」の名が登場する最も古い史料元徳二年(一三三〇)二月一八日の「沙弥某寺領寄進状」(清水寺文書)だということです。
  ※福田保・・・野村、上田、福吉、大門、西古瀬、中古瀬、東古瀬、屋度、沢部、東実、出水、松尾、田中、山国の各村
 「保」とは、平安時代後期(11世紀後半以後)から中世にかけて新たに「保」と呼ばれる所領単位が登場し、人名や地名を冠して呼ばれ、「荘」「郷」「別名」と並んで中世期を通して存在した。

 

2 江戸時代・・・播州加東郡山國村  

播磨国としている古文書もありますが、播州のほうが圧倒的に多いようです。
    ※画像 天保国絵図播磨国天保9年・1838年国立公文書館デジタルアーカイブより、「高933石とあります」)


3   明治5年(1872)・・・飾磨県第三大区第五小区山國村

廃藩置県(明治4.7.14)直後は「三草県」「姫路県」を経て「飾磨県」(明治4.11.9)に属した。行政区画の変更「大区・小区制」実施によりこのように称されたが、明治8年に「第二小区」に変更。明治9年(1876)第3次兵庫県(ほぼ現在の県域)の成立により、兵庫県第三大区第二小区山國村」となる。
 ただ、  明治時代の文書では依然として県名ではなく、江戸時代以来の播磨国(はりまのくに)を頭につけたものが多く存在します。

 

4 明治22年(1889)・・・兵庫県加東郡社村之内山國村(やしろむらのうちやまくにむら)
明治12年1月 行政区画として「加東郡」(現在の小野市域をも含む)発足、1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、社村・山国村・田中村・野村・貝原村・窪田村・鳥居村・家原村・西垂水村・松尾村・上中村・梶原村・北村・出水村の区域をもって社村が発足。  

 

5  明治45年(1912)・・・兵庫県加東郡社町山國
  6月1日 - 社村が町制施行して社町となる。

 

昭和30年(1955)には福田村、米田村、上福田村、鴨川村と合併し「新社町」となった。  戦後は「山國」から「山国」と「クニ」の漢字が新字体となった。

 

6 平成18年(2006)・・・兵庫県加東市山国
加東郡社町滝野町東条町の3町が合併。

 

【参考・引用】
 「ムラの戸籍簿データベース」   https://www.drfh.jp/mura/index.php?title=%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
   『社町史 第2巻本編2』(2005年、ぎょうせい)
   『兵庫県市町村合併史・上』(兵庫県総務部地方課、1962年 

   『日本歴史地名大系』(平凡社、2005年)

「山国」という地名について  ーふるさと山国 今昔あれこれ 1 ー

私の地区(兵庫県加東市山国)の名称「山国」の読み方ですが、「やまぐに」と濁らずに「やまくに」と読みます。
平成の頃から地区への転入者が増加し、令和5年度(2023)の時点では、いわゆる「本村」(明治時代以前から在住)の戸数が約160軒なのに対して、それ以外の組(古い呼称では隣保)の戸数は約220軒と明らかな逆転現象(?)が生じています。
中には、地区名を「やまぐに」だと思っている方がいらっしゃるかも知れません。

国道372号と県道85号加東神戸線の山国交差点(南向き)2024/04/19撮影


大正12年(1923)にまとめられた加東郡誌』加東郡教育会)には、地区名の読み方と地名の由来が述べられています。

山国
山国はヤマクニと訓ず(読む)。嬉野の西部山谷の間に発達せる大部落にして地勢一般に高く海抜最高129米(メートル)、最低70米の間にあり。実に本町部落中の最高地なりとす。これ古来山国の命名ありし所以(ゆえん)ならんか。(これが山国と名付けられた理由であろうか)
 (第2篇 町村/第2章 社町/第1節 大字名)  ※新字、新仮名遣いに改めています。

※ここで「本町部落」とあるのは、大正当時の「社町」であり、現在の加東市立社小学校の通学区のことです。昭和30年(1955)から平成18年(2006)まで存在した加東郡社町とは違います。

「地勢一般に高く」と、標高の高いことから「山国」と名付けられたと、やや苦し紛れの表現になっています。
ちなみに、引用文では「海抜最高129米(メートル)、最低70米の間」とありますが、最新の国土地理院の地図(電子国土web)によれば、地区東端の住宅地は約66メートル。公民館のあたりで約82メートル 東に向かうほど標高は高くなり、旧東条町との境、(兵庫教育大学入り口)附近では約136メートルにも達しています。

そのように、加古川河岸段丘が東に行くほど高くなっている様子が典型的に見られるのも、当地区の地形の特徴です。

 

「忘れ得ぬ人」

ここ2ヶ月ほど、昼寝癖をやめたら、(当たり前ですが)寝付きはよくなりました。
ところが、最近、すぐに入眠できないときに、以前の落語にかわりにYouTubeで朗読をいくつか聴いている中に、国木田独歩二老人」(朗読・寺島尚正  https://www.youtube.com/watch?v=Ub7N_PmUSKE)というのがあり、青空文庫で本文を確認しているうちに、眠気はどこへやら・・・。

*国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。

 

一時、独歩*の作品をいくつか続けて読んでいた時期がありました。
印象に残るのは、 「源叔父」(1897年・明治30)、「武蔵野」(1898・明治31年)、「忘れ得ぬ人々」(前に同じ)あたりですが、今回はこの「忘れ得ぬ人々」**から思い出した学生時代のどこの誰とも分からぬ男性についての思い出を綴りたいと思います。

**  『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価された国木田独歩の1898年(明治31)4月《国民之友》に発表された短編小説。
溝口(現,川崎市)の旅館亀屋で、無名の文士・大津弁二郎がたまたま泊まりあわせた画家の卵・秋山松之助に物語る形式となっている。
大津には親兄弟や先生と違って忘れても義理を欠くわけでもないのに、妙に忘れられない何人かの人々がいる。
一人目は、十九歳の春、瀬戸内海を渡る汽船の甲板から見た寂しげな小島、そこで小さな磯を漁る漁夫と思しき男
二人は、二十二、三歳の正月、九州阿蘇山の麓で見た馬子。
三人目は、夏の初め、四国の三津が浜で見た琵琶僧。
「忘れえぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」の句から始まる原稿、二年後に書き加えた人物は・・・
  (朗読: https://www.youtube.com/watch?v=8k2GuuSrkRs

広大在学時(昭和49~53・1974~1978)、所属は教育学部教育学科(今は改変されて。第ナントカ類とかになっている)でしたが、教員免許所得のために、文学部の国語国文科、中国文学科、中国哲学科などの講義を聴いていました。

市内東千田町にあった広島大学本部キャンパス

たぶん、国文学近代文学だったか?それだと有名な磯貝英夫先生・・・?)の授業でしたが、教室に工員風の菜っ葉服姿の聴講生の男性が一人いました。足下はズック靴で坊主頭絵に黒めがね。痩せて小柄な人だったと記憶しています。

当時の文学部講義棟の木造校舎(ブログ「移転前の広島大学」)

年齢は幾つぐらいだったのでしょうか?意外と若かったのかも知れません。
地味な服装の多い広大の男子学生の中でも、ひときわ目立つほど地味でした。
毎回、真面目に授業には出られていたように思います。

ある時、広島駅から宇品方面に向かうバスに乗っていて、何気なく車窓から外を見ていて、歩道を小走りに大学方面に向かっているこの聴講生の男性を見つけました。

そのとき、その人はパンの耳の入ったビニール袋提げていたのです。
工員風の菜っ葉服だけでも十分に印象に残るのですが、そこへパンの耳ですからますます「いったい、どんな境遇の人なのかな?」と思ってしまいました。

定年後に大学の聴講生となって、自分の興味のある分野の勉強をしようとする高齢者の話は聞いたことがありますが、食費や衣服などの経費を切り詰めても聴講生になって勉強しようとは、いったいどういう理由からだったのでしょうか?

エピソードとしては、たったそれだけのことなのですが、国木田独歩」→「忘れ得ぬ人」→「菜っ葉服の聴講生」という連想が自然と働いてしまいました。

なにかのきっかけで、50年近く経っても、ほんの一瞬の記憶がよみがえる、考えてみると不思議なことではないでしょうか。

 

そういえば、この文学部の木造校舎には廊下に「下駄履き禁止」という立て札がありました。昭和50年頃のこの時代に、さすがにもう下駄履きは見られませんでしたが、

時代を感じさせますね。

たしか夏場は裸足にサンダル履きだったかな((^_^))

「サクラサク」 合格電報の話から・・・

例年なら、桜の開花状況が毎日のニュースとともに聞かれるのに、今年は寒暖の差が大きいのと、雨が多いせいか、近くの桜のつぼみも堅く、一向に咲く気配がありません。

これまでに、電報というものをもらったのは、おそらく大学入試(合格発表)、先月の父の葬儀、あとひょっとして結婚式もあったかも知れません。(自信がありません)

 

50年前の昭和49年(1974)の3月3日、4日と入試がありました。共通一次の前の1期校・2期校の時代ですから、一発勝負。
2日目の日程が終わり、正門から帰ろうとすると、地元の広島英数学館が前日の数学の模範解答を配っていました。確認してガッカリ。これではよくて3割の出来かなというところでした。数学だけではありませんが、割と正統派の問題が多い広大でしたが、元々数学は弱い上に苦手な分野(ベクトルだったかな)とあって、散々でした。

市内東千田町にあった頃の本部キャンパス

他の英国社(日本史)は手応えがあったものの、数学がコレでは・・・と思いながらも、2期校に向けての準備をする気にもなれず、発表の16日を待ちました。
旺文社模試では、A判定が多かったのでちょっと楽観視してたのかも知れません。

 

さて、発表の16日。当日の午前、バイクに乗った郵便配達のオジさんが、ニコッと笑って電報を手渡してくれたときの嬉しさは半世紀経っても覚えています。
たしかサクラサク ヒロキョウ」とありました。ネットも何もない時代、学生が(たぶん)サークル単位で合格電報をアルバイトとして受け付けていたのだと思います。
あと、大阪の夕刊紙には氏名が掲載されていたと聞いたこともありました。たしか、地元紙には地元国立大学合格者氏名が掲載されていた、そんな時代でした。

 

山陽本線の特急しおじ 昭和50年新幹線博多開業で廃止)

 

合格が決まってすぐに広島へ行き(山陽線特急しおじ だったか?片道姫路から3時間あまり)、下宿の手続きをすればよかったのですが、父の仕事の都合で遅くなり、結局見つかったのは東隣の府中町(とは言っても橋を渡れば市内)にあった、元工員さん向けのバラック立てのような下宿でした。
家主さんの田村巌さんのお宅の敷地内に建っており、1階2階とも3人ずつ広大生が入っていました。初めは2階の西日の当たる部屋で、二年先輩が卒業後に南向きの少し広い部屋に移りました。

朝夕の2食(日曜は除き)風呂(秋冬は隔日。田村さん夫婦・長男・長女さんのー山木さんー一家5人にプラス下宿生6人が入る!!なんと計14人)付きで、当初は17500円でした。
当時、市内では間借りが多く、その場合1畳あたり千円というのが相場でした。
大学からはおそらく5キロ以上も離れており、普段は自転車。雨の日は、バスと電車を乗り継いで通うのですが、何よりも2食付きというのが親にとっては安心だったみたいでした。

 

書けば、いくらでも材料はありますが、いずれまたということで・・・・。

 

先日、この年の入学生(当時広大では、関西のように○回生と言わずに、入学年度で49生とか48とか呼んでいました)の同窓会の案内はがきが届き、7ヶ月後を楽しみにしています!たしか31名でしたが、さて何人集まることでしょうか!?

奇習「彼岸乞食」のこと

彼岸乞食 (社町山国部落の奇習)
村内十三歳以下の男子十数人一組となり、(春の彼岸)中日の日未明より各方面に立ち分かれ、袋或いは風呂敷等を携えて各戸を叩き「彼岸々々」と呼び歩き、金銭、米或いは野菜乾物等を強制的に貰い受け、最後に一ヶ所或いは二ヶ所に集まり、米は飯に、金は加役を購う料として、加役飯を焚き、十四歳の男子(去年まで彼岸乞食に廻りたる者)を招待し相共に会食す。尚余分ある時は売り払い十四歳の者が分配する慣例なりと。(以上、原文の旧字体、旧仮名使いを新字・新仮名遣いに改めた)

その起源ははっきりしないが、伝説によると昔藤田部落に大きな池があったが、その池には大蛇が生息しており、しばしば人や家畜に害をなした。村人の一人が「このまま放置すれば、きっと祟りをなすであろう」と言った。
恐れをなした村人たちは、毎年春秋の彼岸に追善供養として米を集めて仏事を催した。
ところが、次第に仏事よりも飲めや歌えの会食が中心となるような弊害を生じたために、古老たちはそれを嘆き、改めようとしたが、すぐには改まらなかった。
近年では米を大声を出して強制的に貰い受けるのではなく、礼儀正しく受け取るようになった。また、この飯を食べると疫病厄難を免れると言うことで、良家の子弟はそれを貰い受けて食べるという。(原文を意訳した)
   加東郡教育会 編『加東郡誌』(加東郡教育会,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978702)第八編風俗

小学生の頃、我が村には上記引用文のような風習がありました。

夜明け前から、村内(大きな村なので、我々の通学班の範囲で40軒近くか?)を手分けして廻り、米や野菜などを貰い受け、宿になる上級生の家でかやくご飯(肉は鶏だったような)をいただく。昼間は神社で遊んだり、自転車でちょっと遠出したりして昼過ぎに解散だったか・・・・。

ほんとに珍しい風習らしく、普通にインターネットで検索したぐらいでは出てきませんが、国立国会図書館の検索では、以下の書籍などで取り上げられています。

中山太郎 著『日本若者史』,日文社,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9542843 
 中山太郎 編『日本民俗学辞典』,昭和書房,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453383 (参照 2024-03-20)

 

筆者の中山氏は「関東から東北にみられる鳥小屋の風習が変形したものか」と簡単に触れているぐらいです。

 

これと関連するような彼岸の風習としては、私たちの地方では「日迎え日送り」というのもあったということで、これはたぶん老人と女子の行事ではなかったかと思います。

彼岸会の民俗的基盤に注目する必要があろう。京都府宮津市付近や兵庫県美囊(みのう)郡・加東郡などには,彼岸の間に〈日の伴〉とか〈日迎え日送り〉といって,朝は東方の,日中は南方の,夕方は西方の社寺や堂に参る行事がのこっており,原始的な太陽崇拝のなごりと考えられている。日

迎え日送り(読み)ひむかえひおくり 世界大百科事典(旧版)

 

 

民俗学研究所 編『年中行事図説』,岩崎書店,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9546230 (参照 2024-03-20))

この「彼岸乞食」もいつまで続いたのか不明です。私は近所の2年上の人の家といううっすらとした記憶はありますが、他に色々思い出されてこないので、自分たちが6年生の頃にはもうなかったのかもしれません。

それにしても「乞食」とはいやなネーミングですね!

小学校でも恥ずかしくて話題に出来なかったのではないでしょうか。

今度同年配の村人に出会ったときにでも、いつまで存在したのか聞いてみようと思います。

 

映画の想い出 ー小学校時代ー

昭和37年(1962)から昭和42年(1967)の小学校時代、まだ体育館がなかった(6年時に完成?)ために、全校朝礼は運動場で、音楽会や映画鑑賞などの文化的行事は、昭和11年(1936)に建てられた校舎2階の講堂で行われていたように記憶しています。

今となっては、どんな作品を観たのか全く思い出せないのですが、映画が終わって会場に照明が点くと、涙ぐんでいて恥ずかしかったことを覚えていますから、例えば、山本有三路傍の石(昭和39年、東映)のような感動的な作品だったのでしょう。

1964年 東映映画

市街地の外れには、元牛市場の跡に粗末な映画館があり、そこでは祖母だかに連れられて三島由紀夫潮騒(何度も映画化されていますが、1964年日活作品)を観たかすかな記憶があります。
 田舎の小さな町にも映画館があった時代の話ですが、時代はテレビ(それも白黒からカラーへ)へと移り変わっていましたから、ここもまもなく閉じたのではないでしょうか。
昔あった映画館のデータベースを見ても、掲載されていないようなレベルの映画館でした。

1964年 日活映画

それともう一つは、夏に村のお宮の境内での映画鑑賞でした。これはまだまだ娯楽の少ない時代の盆踊りなどと並ぶ納涼行事のひとつだったのでしょうか。
現代のようなお金のかかる花火大会などは考えられませんでした。
白いシーツを貼ったようなスクリーンの前で、もちろん椅子などなく、私たち子どもたちは体育すわりだったでしょうか・・・・
こちらも映画の内容ではなく、夜店のカーバイドランプ(アセチレンランプの匂いが強烈に印象的に残っています。

「郷愁をそそる匂い」とでも言うのでしょうか!

新・サンデーKUぼちぼち絵日記より http://stagecoach1939.dreamlog.jp/archives/50711861.html

小学生時代の映画に関しては、いずれも曖昧なままですが、とにかく鑑賞後に泣いてたのを周囲に知られるのが嫌でしたね(笑)

 

これまでに観た映画の本数については、極めて少ない方なのですが、もちろん数十年経過しても忘れられない作品はあります。そのことについては、いずれ改めてということにします。

中学生の頃憧れた職業は・・・

先日、家人が押し入れから私の中学の卒業アルバムを探し出してきました。
昭和46年(1971)ですから、53年前のものです。
もちろん白黒。たしか3年後の高校のアルバムも同じく白黒でした。
4クラス140数名は、地元小学校からそのまま同じ中学へ進んだので、転校生以外はほぼ分かっていると思ったら、なんとなんと!「エー!?こんな名前の子(女子に多い)いたかな?」というのが多いのにびっくり!

さて、今回の話題である「中学生の頃憧れた職業」は、なんと警察音楽隊だったのです(笑)

(兵庫県警音楽隊)

長らく忘れていたのですが、最近Facebookで「友達の友達」のある人が、兵庫県警音楽隊の演奏を聴きに芸術文化ホールを行かれたことを投稿されていたのを見て、思い出したのでした。

 

中学校の音楽のI先生に誘われて(引き抜かれて?)たった三日間のテニス部からブラスバンドに入って以来、中高と計5年ほど吹奏楽部に在籍していました。


中学2年から3年の頃(昭和44、45年)だったでしょうか、近くの西脇市民会館(当時田舎に市民会館があったのは播州織で栄えたこの町だけでした)へ吹奏楽の演奏会を聴きに行きました。
天理高校自衛隊音楽隊、警察音楽隊などだったと思います。
すっかり魅せられてしまい、漠然と憧れていました。田舎の中学生のことで、どうすれば入れるのかの情報もなく、何よりもあまり楽器(トロンボーン)も上手くなかったので、どだい無理な話ではあったのですが。

西脇市民会館 建築学的にも有名な建物だったとか

ブラスバンド部の一級下のM君は工業高校を出て警察官になり、若い頃音楽隊配属になっていました。

毎日新聞HPより

ユーフォニウムでまあまあ上手な方でしたが、「エー?彼が音楽隊に?」と正直に言って意外でした。

 

私の場合は、3年の後半頃には、音楽隊への憧れははどこかへ消え去ってしまっていました。

それは、何かほかに将来の夢があったからではありません。

大学受験のとき、志望学部が3つバラバラだったと前回投稿しましたが、その後もコレといった職業への思いはなかったように思います。

ただ、高校時代には日本史、社会学(のようなもの)、心理学(のようなもの)には漠然と興味を抱き、文学部系統への進学を考えていましたが、教育学部(教員養成ではない)を卒業して高校教員になったのも、いわゆる「なりゆき」か「でもしか」の結果だったでしょうか。

 

とりとめもなく書いているうちに、そういえば小学校の高学年の頃はパイロットに憧れて、航空雑誌を読んでいたなと思い出しました。

運動神経もなく、その後強度の近眼になったので、全くの夢想で終わりましたが(笑)

 

「身の程を知る」ということが分かっていないのが、逆に子供の頃の特権なのでしょうが・・・・。

 

50年前の今頃は・・・

ちょうど50年前といえば、昭和49年(1974)2月のことで、高校3年の3学期も自宅学習期間に入っていました。
既に1月から自主的に(?)自宅学習に入っていた級友もいましたが、私は登校も生活のリズムを維持するには良いかと学校に行っていたように思います。

私などが現職の頃は、1月は共通一次センター試験の問題演習に明け暮れていましたが、センター試験が開始になる5年前の「1期校・2期校」の世代ですからそれもなく、いったい何をしてたのか、まさに「往事茫々」と言ったところです。

関西の私立大学は、2月上旬が試験のピークで、私も県内のK学院の法学部に出願していましたので、一応それに向けて赤本などで対策は講じていました。
ところが、試験日の数日前に電車に乗って下見に行って風邪をひいたのか、当日の朝は熱発で起きられず、母親が用意してくれた弁当も無駄になりました。


今、K学院が「滑り止め」だったと言うと、「そんなに出来が良かったのか?」と思われそうですが、半世紀ほど前の国立大(地方ですが)第一志望者にとっては、その程度の受け取り方でした。(たぶん、当時権威のあった旺文社模試の判定も結構良かったと記憶しています)

受験料(国立の場合3千円)の出費を惜しんだわけではありませんが、出願校は私立1、国立1期校、公立2期校の計3校でした。
今考えてもおかしいのは、学部がバラバラだったことです。私立・法学部、1期校教育学部(教員養成でない)、2期校外国語学英米語学科。



担任をしていた頃に、こんな出願の仕方をする生徒がいたら、一応指導はしただろうなというような組み合わせでしたネ(笑)

 

あと、もしK学院を無理して受けて不合格にでもなっていたら、その後ずっとK学院出身者に対してコンプレックスを持ったかもしれません。(同僚には結構出身者がいましたので)
合格した1期校(写真・中)は、苦手な理科が課されず、社会も1科目、そして何よりも数学がそれほど難しくないというのがピッタリでした。
ただ、そういう4教科の「私大3教科+数学ⅠⅡB」は全国でも数少なく、30人定員のところに200名ほどの出願者がいて、国立には珍しく6~7倍の高い志願倍率だったように記憶しています。

 

そういうわけで、2月と言えば自宅学習の期間。多くの受験生が滑り止めを確保する中、まだ一つも受験を経験しないまま、25日の卒業式を迎えるという、不安な日々を送っていたのがちょうど50年前の今頃でした。

結局、大学受験では後にも先にも1校受けただけでした。当時でも珍しかったと思います。

新型コロナに感染(;。;) 

「コロナ第10波に入った」の声…インフルと同時流行

https://news.yahoo.co.jp/articles/5319417807bce96bd1a185f3485534248ce8b4e8

「あ、今年も花粉症が来たか!」と思った先週金曜日の朝。

その後、軽い頭痛、肩こり、日曜夜には喉痛で目が覚めるといった経過をたどり、月曜にかかりつけ内科で検査の結果、まさかの新型コロナ陽性(ワクチン五回打ったのに・・)

数日の間に、家族5人中4人(うち両親はともに92歳)が陽性と判明。
幸い、みな高熱を初めとするひどい症状はなく、食事が普通にとれているのが不幸中の幸いでしょうか。

ただ、私の場合「推奨される自宅療養期間」の5日間を過ぎても、軽い風邪症状は残っています。
今回の件をフェイスブックに投稿したところ、あちこちからお見舞いと共に罹患した人の体験談も書き込まれていました。
どうも私のように「ラゲブリオ」というウイルス増殖を抑える薬(一本9万円、3割負担から公費補助があって約9千円)を初め5種類もの薬を処方された人はなく、「軽症高血圧で薬飲んでるだけやのに、なんでかな?」というのが正直なところです。
まあ、そのおかげでこの程度で済んでいるのかも知れませんが・・・。
 新たなコロナ変異株「JN.1」というのが、第10波をもたらしそうだとニュースでも報道されているので、それに該当しているかも。

 

さて、昨年来「インフルエンザ」「新型コロナ」の同時流行が言われていたので、秋口に初めて「インフルエンザワクチン」を打ったのですが、そもそも自分がインフルエンザに罹患したという記憶はありません。
昭和の時代には、かかりつけのお医者さんも少しひどい風邪症状だと「これは流感(流行性感冒)やね!」と言われていたように覚えています。

※「スペイン風邪」のことを調べていると、この「流感」の語がやたらと出てきますね。100年以上前から使われてたようです。

今のように検査のキットがあるわけではなく、胸の聴診器と喉の腫れなどを診てそう診断すると注射をされていたように思います。

アンプル剤容器

アンプルの切り方

アンプルのくびれ部分にハート形のガラス切りで軽く傷をつけ、パキっと折る、煮沸滅菌したガラス注射器にピンセットで針を付け薬液を取る、いつも注射前の儀式だった。

(「昭和の医薬品と容器」より    http://micha072.blog.fc2.com/blog-entry-3008.html

ワクチン接種などは別ですが、昭和の頃のように注射をされるということがホントになくなってしまいましたね。まして「アンプル」とか言っても若い人には分からないでしょう。

 

家でゴロゴロしているしかないので、例によってやたらとYouTubeを観る生活ですが、
コロナ体験の動画をアップしている人が多いですね。

また、上述のようにフェイスブックでの情報交換。「古稀」近いジジイの割にネットのほうは活用できてますかね(^0^)

母校の校舎・キャンパス今昔 統廃合や移転を経て

地方では、過疎化・少子化などの進行から小中学校の統廃合が珍しくありません。
私の住む市の周辺でも、そうした統廃合のプランのない市町はないと言って良いでしょう。

大学でも定員を大きく割り込むのが常態化していて、「廃学」にならないのが不思議なぐらいの学校が、地方の中小規模私学を中心にたくさんあるというニュース記事を見たこともありました。

 

幸い私の通った小・中・高・大の4つの学校ともに、廃校になってはいないものの、統合移転などで、在学時そのままの土地にあるのは高校だけになっています。

 

○小学校(昭和37~42年・1962~1967)・・・市内のうち、旧社地区内の5つの小学校と一つの中学校が中高一貫義務教育学校になる工事が進行中、2025年(令和7年)4月開校予定

中高一貫義務教育学校の工事進行中(加東市ホームページ)

 

昭和40年(1965)頃の社小学校 校舎はおそらく昭和初年代の建造(ブログ「ふるさと加東の歴史」より)

 

○中学校(昭和43~45年・1968~1970)・・・加東郡社町立社中学校(町内の他の小規模な3校を統合して移転)

現在の加東市立社中学校(Wikipedia

 

 

戦後間もなく建てられた木造平屋の旧社中学校舎(ブログ「ふるさと加東の歴史発見」より)

○大学(昭和49~52年・1974~1977)・・・広島大学(医・歯・薬学部を除き、広島市内から東広島市へ統合移転)

広島市東千田町にあった広島大学本部キャンパス
名前は「広大」だが、キャンパスは「狭大」

本部跡地は「東千田公園」になり、被爆建物として有名な旧理学部一号館のみが残る

現在のキャンパス(広島大学ホームページ)
国立大学で4番目に広いキャンパスとか



 

卒業後何十年も経過しているわけで、建物の建て替えは致し方ないにしても、「場所にまつわる記憶」がたどれないというのは、やはり寂しいものですね。

同じような思いの方もたまにいらっしゃって、今回もそういう方のブログなどから画像を拝借しました。ありがとうございます。

 

今をときめく(?)週刊文春「家の履歴書」(現在は「新・家の履歴書」)と題して、著名人が育ったお家の間取りと,家にまつわる思い出話を連載していたことがありましたが、何時の時代にどんな家屋で育ち、どんな校舎で学んだかというのも、人間形成にとっては結構大切なポイントなのではないかと思ったりします。

 

ちなみに、通った4つの学校のうち大学を除き、他はどれも「木造校舎」

で、トイレはもちろん水洗ではありませんでした。

細かく言うと大学も教育学部は鉄筋コンクリート、文学部の講義棟は木造。

ブログ「移転前の広島大学」より
たしか廊下に「下駄履き禁止」の立て札があった

最後に言わずもがなの一言。

小学校5校と中学校1校が統合すると、当然これまで計6人いた校長さんも一人になってしまうんですね!大規模な学校ですから、校務運営には副校長とか教頭とか複数配置して対応するんでしょうけど、なかなか大変な状況が予想されます。