往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希を過ぎた暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

明治の司法界で活躍した旧三草藩士・福原直道 その5

帝国議会では、政府と議会が予算案をめぐって真っ向から対立し、明治24(1891)年12月に衆議院が解散されました。

○明治25年(1892)39歳

第1回総選挙(明治23年)における官憲の干渉を風刺した
フランス人画家ビゴーの絵(ジャパンアーカイブズより)

第2回総選挙では内務省(品川弥二郎内相)による露骨な選挙干渉が行われ、各地で起きた騒動で全国で25名もの死者を出すという歴史に残る選挙となりました。

 県内でも、同年2月12日に神戸へ遊説に訪れた自由党総理(総裁)板垣退助に対する暗殺未遂事件が起こるなど各地でトラブルが発生しています。

兵庫県内の候補者の一覧で、赤丸が当選者。備考欄には投票前の形勢が記されている
 (「品川弥二郎文書」ー史料に見る日本の近代ー)

福原直道が兵庫6区(当時の加東・加西・多可の三郡)から出馬するに至った具体的な経緯は不明ですが、政府は各地で吏党派とか着実派とか呼ばれる候補者を擁立して、政府に反対する民党候補者を押さえ込もうとしており、政府側の懇望を受けてのことだったのではないかと思われます。

加東郡出身の現職・高瀬藤次郞に対して、福原は「多可郡生まれ※の大審院書記長の肩書きを持つ法律学士」という触れ込みで、多可郡、加西郡中心に演説会を開き、多可郡中村(現・多可町中村)では千人もの聴衆を集めたと言われています。

※多可郡生まれは誤り。本ブログその1参照。

結果は高瀬1455票に対して福原1090票と、高瀬が再選されたものの、選挙戦前には予想できなかった結果となりました。

こうした経過をたどったことについて、『社町史』は次のように述べています。

高等官吏である福原が自由党の高瀬の選挙区に出馬し、県下の候補者中最高額(9,000円)の選挙費用を使ったとされることなどから、民党派の候補者を落選させることに力を注いだ政府の選挙干渉と何等かの関連があったのではないか。(『社町史第二巻本編2』p627)

11月
 「大阪控訴院検事」

○明治27年(1894)41歳

3月

「依願免本官」

自筆の免官願い(国立公文書館デジタルアーカイブ)

下はその際に提出された診断書で、「肺炎カタル」(気管支肺炎)と記されています。

4月21日 

弁護士登録

免官後は弁護士としての活動を開始するとともに、関西法律学校(関西大学の前身)講師を務めています。

島本篤平 (澪標航夫) 著『大阪新繁昌記』(明治27年・1894)

錦川漁郎 (大藤陽次郎) 著『浪華状師月旦 第1編』(明治29年)という書物は、大阪の弁護士の人物評をまとめたものですが、この中に福原直道も取り上げられています。
「学識深く」「東京控訴院では硬骨の名高く」「弁護士として大阪でも輿望を集めている」などと評する一方で、先の第二回総選挙に吏党の候補者として出馬したことに言及した後、「碌々たる一状師※を以て甘んずる者に非ず・・・捲土重来天下に呼号する日・・・吾人刮目して之待つ」と、政治家としての活躍が期待されると述べられています。

※状師・・・弁護士や代言人を指した当時の用語。

 

○明治31年(1898)45歳

12月5日「大阪地方裁判所所属弁護士福原直道は本月五日死去セリ」(官報)

死因などは不明ですが、免官の理由となった肺の病気が再発したのかも知れません。

 

福原直道の家族については、その1で見た兄・直哉以外では、原田道寛編『大正名家録』(二六社編纂局, 大正4・1915)という書物の中に取り上げられた久保三友(帝国軍人教育会代表、明治元~?)という人物の紹介文に「長女ふみ子は兵庫縣三草村の人福原直道の長女にして內助の功大なり」とありますが、それ以外は不明です。

 


 
 

明治の司法界で活躍した旧三草藩士・福原直道 その4

以下に、司法省及び裁判所における福原直道の経歴を年々の『改正官員録』や『職員録』などで見ていくことにします。

○明治11年(1878)25歳

「司法省 七等属」 ※一等~十等属は判任官

初代の司法省庁舎 『憲政五十年史』より

○明治13年(1880)27歳
 「司法省 三等属」

この年、初の訳書『仏国刑法詳説 』第1巻、第2巻が出版されました。

「仏国刑法詳説 第1巻」辺留吐爾 (ベルトール) 著, 福原直道 訳 司法省 明治13年(1880)

○明治14年(1881)28歳
「司法省 取調局  二等属」

○明治16年(1883)30歳
「司法省 取調局  一等属」

○明治17年(1884)31歳

11月17日
「旧明法寮法学生徒中、優秀な者にして現に諸官衙に採用せられ或いは代言の職務に十分なる学力を有する者」23名の一人として「法律学士」の称号を授与されました。

※後の東京大学などの出身者は「法学士」であり、それらと区別する名称となっている。

○明治19年(1886)33歳

7月
「東京始審裁判所 検事 奏任官四等(下)正七位」

※「始審裁判所」とは、刑事裁判において軽罪裁判を担当した裁判所のことで、現在の地方裁判所に相当する。この年に施行された「裁判所官制」により、裁判所内に「検事局」が置かれた。

○明治20年(1887)34歳

三名合同で訳した『仏国商法講義』第壹冊,(明治20-21年)

この頃から、東京法学校※、横浜法律学校で治罪法(後の刑事訴訟法)などの講義を担当しているほか、同法の専門家として法律雑誌などに論文が掲載されています。

※1881年(明治14年)に東京法学社を母体として設立された私立法律学校で、現在の法政大学の前身。フランス法学を教え、五大法律学校の一つに数えられた。

 

明治19年(1886)横浜法律学校学生募集広告(ジャパンアーカイブズより)

○明治21年(1888) 35歳 大阪攻法会※ 講師(治罪法)  

※明治21年(1888)8月に発足、法律学の講義録を会員向けに頒布した。

○明治23年(1890) 37歳

4月 横浜始審裁判所 検事

8月 奏任官三等

12月 大審院書記長

和仏法律学校(校長 箕作麟祥 神田区柳原河岸)・独逸学教会学校(校長 桂太郎 神田区西小川町) 講師を兼任

大審院庁舎(初代)

○明治24年(1891)38歳

8月 東京控訴院※検事   

※後の高等裁判所に相当する。

このように、司法官として順調に経歴を積み重ねる一方で、私立法律学校においても講師を務めていました。中でも東京法学校(後に和仏法律学校)はフランス法の流れを汲む司法省・司法省法学校関係者による支援を受けて設立された学校で、授業は夜の時間帯に設定されており、勤務を終えてから出講していたようです。

明治23年(1890)竣工の和仏法律学校九段上校舎(法政大学ホームページより)

明治22年(1889)に結成された播磨助長会は、東京に住む播磨地方出身者による、いわゆる同郷会のひとつでしたが、機関誌「播磨の友(13)」(明治23年1月号)には新年会宴会参加者34名の中に福原直道の名があります。

ちなみに、その他の著名人としては美濃部俊吉(高砂出身、農商務及び大蔵官僚、銀行家、美濃部達吉の兄)三上参次(姫路出身、国史学者・東京帝大教授)野尻精一(姫路出身、文部官僚)などの名前が見られます。

「播磨雑誌」明治25年(1892)5月

 

明治の司法界で活躍した旧三草藩士・福原直道 その3 

司法省法学校は明法寮(明治四~八年五月・一八七一~一八七五)の後身で、ここで学んだ人たちは、明治・大正の司法界で活躍しました。
これらの学校には、いわゆる「お雇い外国人」のフランス人教師として、明治5年(1872)にジョルジュ・ブスケ、翌明治6年(1873)には、「日本近代法の父」と称されたギュスターヴ・エミール・ボアソナードが招かれ、フランス語による本格的な法学教育が開始されました。

ギュスターブ・エミール・ボアソナード(1825 - 1910年)法政大学ホームページより

 

同校では明治8(1875)年8月に、木下広次など7名のフランス留学が決定し、定員20名に対して、生徒数が8名に減ったため補充試験が行われ、東京開成学校などから福原直道を含む12名が補欠入学しました。

合格者氏名を発表した文書には「第一 福原直道(飾磨県士族 二十一年八ヶ月)」と記されており、福原が補充試験において首位で合格したことがわかります。(『手塚豊著作集第9巻 明治法学教育史の研究』)

在学中の福原の成績については、以下のように分かっています。(手塚前掲書)

明治8年(1875)11月 フランス人教師ブスケによる評価

第一組 小倉 宮城 大島 岸本 福原 沢井

第二組 井田 (他6名)

第三組 井上 (他6名)

明治9年(1876)1月 フランス人教師ボアソナードによる成績序列

諸生徒階級

第一 宮城 第二 小倉・・・・・第十七 福原 (当人儀病気無之候ハバ今少々能出来可申筈)・・・第二十 大塚

評価した教師が違うとは言え、わずか二ヶ月で大きく序列が下がったのは、病気がその原因だったようです。

明治9年(1876)8月、第1期生20名が卒業し、福原たち補欠入学生もその中に含まれました。なお、この時点では「法律学士」の称号は授与はされず、明治17年(1883)11月まで待たなければなりませんでした。

司法省法学校第1期生(Wikipedia)
どの人物が福原直道なのか分からない

主な卒業生は以下の通り

井上正一・ 大審院判事/栗塚省吾・大審院判事/木下広次・初代京都帝国大学総長  /岸本辰雄[・明治大学創設者/小倉久・ 関西法律学校初代校長/宮城浩蔵・明治大学創設者/磯部四郎・大審院判事 検事 等々
※大審院 戦前の最高位の裁判所

第1期卒業生たちは、おそらく成績の順に、フランス留学組(3)、司法省出仕組(11)と分かれましたが、残念ながらこの時点で福原ら6人は、司法省への出仕がかないませんでした。上で見たように病気による成績不振によるものだったのかも知れません。

 

福原直道の名前が『官員録』において「司法省 七等属」として見られるのは、明治11年(1878)のことです。

明治の司法界で活躍した旧三草藩士・福原直道 その2

慶応4年(1868)4月、新政府の軍防事務局は在京の諸藩に対して、石高1万石あたり25名の兵を差し出し、調練(訓練)に参加するよう命じています。このとき1万石の三草藩では農兵を含め25名の人員を献兵していますが、その中に、当時16才であった福原虎治(虎次の誤り、後の直道)の名前が「太鼓打」の係として挙がっています。(『西脇市史』)

 

■ 「貢進生」(こうしんせい)に選ばれる

日本教育史に詳しい人を除けば、「貢進生」という言葉にピンとくる人は極めて少ないことでしょうから、『学制百年史』(1972)の説明を見ておきましょう。

大学南校の当時における地位を示し、また維新政府の人材養成と関連して注目すべきものは「貢進生」の制度である。(中略)政府は大学南校を中心として人材の養成を企画し貢進生の制度を定めた。この制度は諸藩から俊秀を選抜して大学南校に入学させ、ここで欧米の学問文化を学ばせて国家の指導的人材を養成しようとしたものである。

貢進生の制度によれば、貢進生は十六歳から二十歳までの者で、学資は藩から支給される。人数は藩の規模に応じて、一五万石以上は三人、五万石以上は二人、五万石未満は一人と定めている。これによって当時諸藩から三〇〇人余の貢進生が大学南校に入学しており、四年一月の貢進生名簿によれば、総数三一〇人、うち英語二一九人、フランス語七四人、ドイツ語一七人となっている。貢進生の制度は、廃藩置県とともに廃止され短期間であったが、当時の貢進生の中から多くの人材を輩出している。

明治3年(1870)7月の太政官布告に対して、11月になっても 三草藩など全国で53(県内10藩)の藩が「猶予願い」出すなど、貢進生の選考に難渋した藩が多くあったようです。

大藩から推薦され、後に有名になった人物とは異なり、福原の場合は選出の経緯が分かる史料は残っていないようですが、「その1」に記した兄・直哉の経歴から察すると、弟の虎次(直道)も江戸藩邸や私塾における学習歴を有し、身分こそ軽いものの学力優秀な人物との評価を得ていたのではないでしょうか。

明治3年11月30日付けの入校届け

(「大学南校貢進生選挙心得」より、国立公文書館) 当年十八才※「虎治」は誤り

貢進生(唐沢富太郎『貢進生 ー幕末維新期のエリート』より)

■ 大学南校から東京開成学校まで

明治4年(1871)7月の廃藩置県実施により、「貢進生」の制度は一年足らずでなくなりましたが、大学南校から改称された「南校」において、元貢進生約130名が英仏独の学力によってクラス分けされて学業を続けました。※

福原は「仏語三之部」というクラスに所属し、外国人教師からフランス語を中心に代数、幾何、博物、地理などの教養科目を学びました。

※英一之部には伊沢修二、小村寿太郎、三浦(鳩山)和夫、英二組には杉浦重剛がいた。仏一之部には古市公威、仏二之部には石本新六(後、陸軍へ)、木下小吉郎(広次)、加太邦憲(ともに後、司法省明法寮へ)がいた。

大学南校の全教員・生徒 (Wikipedia)

明治5年(1872)の「学制」により、「南校」は校名が「第一大学区第一番中学」と変わりますが、「上等中学第四級仏之部」に福原の氏名が見られます。

 

「第一大学区第一番中学一覧表」(明治6年・1873)

第一番中学の生徒 (ジャパンアーカイブズより)



「第一大学区第一番中学」は、明治6年(1873)4月には「開成学校」に、さらに12月には「東京開成学校」と目まぐるしく校名が変わりますが、福原は諸芸学部(仏学部)※※に在籍してしました。
  ※※他に法学部・理化学部(英学部)、鉱山学部(独逸学部)があった。

諸芸学予科第一年下級に在籍 明治6年(1873)「文部省雑誌第7号」より

貢進生として上京以来約3年の間、福原直道(虎次)の名前は必ずしも上位のクラスにあった訳ではありませんが、廃藩置県によって、旧藩からの学資の支給がなくなるという苦しい状況下で学業を継続していたものと想像されます。

ちなみに、唐沢富太郎『貢進生ー幕末維新期のエリート』には、学業半ばで脱落していった人達の例が紹介されています。

退校の理由  病気・・・ 13名
                 不明・・・5  語学力不足による脱落も多かったのでは?
                    発狂、自殺・・・数名       

       「舎則違反」または「教場不勤」による退学処分・・・5名

三草藩から最も近い小野藩(一柳侯、外様1万石)からは神山清という貢進生が上京していましたが、病気で退校しています。

ここまでの学業は、いわば専門教育に入る前の教養課程のようなものでした。

後にフランス法の専門家となる福原にとって大きな転機となったのは、司法省法学校への入学でした。 

「その3」へつづく 

明治の司法界で活躍した旧三草藩士・福原直道 その1

昨年の秋に、『ふるさと山国の今昔あれこれ ー残したい 土地の記憶ー』という小著を上梓してから数ヶ月。

歴史の基本的知識に乏しいことを痛感して、改めて地元の『加東郡誌』や『社町史』を読み進めていく中で、『社町史第二巻本編2』「近代篇第1章近代社の行政と財政」中の「大選挙干渉の第二回総選挙」の記事中(p626~627)に次のような記述があるのが気にかかりました。

(兵庫)第6区の候補者の中は、高瀬藤次郞のほか・・・・。このような情勢の中一月末に、大審院書記長兼裁判所書記長の肩書をもつ多可郡生まれの法律学士・福原直道の名が候補者に浮上してきた。(以下略)

 

■ 福原直道は旧三草藩士で貢進生の一人だった

「多可郡生まれの・・・福原直道」とありますが、これまで見たことのない名前であることから、いつものように国立国会図書館デジタルコレクションで検索してみたところ、福原直道(幼名は虎次、嘉永6・1853?~明治31年・1898)は旧三草藩士で、明治3年(1870)、太政官布告によって全国各地の藩から集められた「貢進生」(こうしんせい)310名のうちの一人であることが分かりました。

「明治二年 三草藩士籍帳」(『社町史第二巻本編2』所収)において、福原は「金四両二人扶持米四俵 金六両一部二朱 塩味噌薪料」の士族と記載されています。

階級的には「徒士」(かち)に属し、藩主に謁見(えっけん)できない下級武士であったようです。

三草藩陣屋趾の碑(やしろ国際学習塾)

■ 福原直道と多可郡との関係

慶応4年(1868)4月、新政府は江戸在住の諸大名の家臣とその家族を国元へ帰すよう命じました。

定府(じょうふ)の譜代大名であった三草藩(1万石)では、国元の三草(現・加東市上三草)には陣屋に貢租関係の役人が10名余りいただけで、藩主以下足軽までの156人とその家族を住まわせる住宅がなく、長屋を急造したり、領内外の知人を頼ったりするなど宿割りに苦労したということです。(吉田省三『播州三草藩史(立藩編)』)

「中には数里離れた多可郡の村へ身を寄せた者もあり~」(『社町史第二巻本編2』、p560)ともありますが、これは後に述べる福原の兄・直哉などのことではないでしょうか。多可郡(現在の多可郡と西脇市)の大庄屋・小西池仁左衛門(多可郡福地村・現西脇市黒田庄町福地)の世話になったものと思われます。

小西池仁左衛門銅像

 

■ 福原家と兄・直哉について

福原直道がプライベートな事柄について書き残した文章は未見ですが、明治6年(1873)に小西池仁左衛門に招かれ、それ以降多可郡福地村で寺子屋師匠及び小学校教員を務めた兄・直哉(号は鷽山〈がくざん〉、嘉永元年・1848~明治16年・1884)の顕彰碑(下の写真・『黒田庄町史』)が、明治22年(1889)に建立された時に書いた「鷽山福原先生墓表」と『黒田庄の石造物』中の説明文によって分かったことを、以下に挙げてみました。

○父・直方の代から三草藩主の丹羽公に仕えたが、直方には3人の男子があり、長男は早逝し、直哉は二男、直道は三男である。

○直哉は江戸にて藩儒・河野通譽及び司馬遠湖(騰太郎)から儒学を学んだ。

○直哉は三草藩領であった多可郡の福地村、門柳村、喜多村(一部)の代官を務めていたことがあった。

○明治6年(1873)多可郡の元大庄屋・小西池仁左衛門に招かれ当地に移り住み、寺子屋師匠として、後には小学校教員※(大志小学校)として教育活動に励んだ。

※同校で首座教員(「学校幼稚園書籍館博物館一覧表 明治14年」)との記録あり。

○肺結核に罹り明治16年(1883)8月13日死去。一男二女があり、長男の直尋(明治12年生まれ、後に大阪市役所勤務)が家を継いだ。

 

というわけで、『社町史』を初め、他にも「多可郡生まれ」「多可郡出身」との記述が散見されますが、福原兄弟は嘉永年間に江戸で生まれたことに間違いはないでしょう。

明治25年(1892)8月の「播磨雑誌 (5)」に、直道が「 この暑中休暇に際し郷里多可郡へ不日出発の由」という記事も見られますが、これはおそらく多可郡福地村に居を構えていた亡兄・直哉の家へ帰ったという意味ではないかと思われます。

参考地図

 

「大正13年 廣峰神社参詣旅費分配金」について ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ77

地区の古文書類の中に、別途会計から村民への分配金を記録した縦長の帳簿が何冊か綴じられています。
その中に、「大正拾参年 廣峰神社参詣旅費分配控 四月拾壱日」と題した綴りがありました。

伊勢参宮については、近年まで参詣者に対して地区会計より補助金が出ていたことは知っていましたが、姫路市にある広峯神社参詣補助金が、共有財産権をもつ全戸に分配されていたのは意外でした。
このときは、権利を有する131人の戸主に4円ずつ、それ以外の8人に2円ずつ、合計では540円が支出されています。
「大正5年以降 金銭出納簿 山國別途会計」の帳簿を見ると、前年度大正12年度末の残高は891円47銭でしたが、この分配金のために社信用組合の定期預金元金500円を払い戻し、利子40円45銭と合わせて原資としたと記録されています。
この頃の4円が今ではいくらぐらいの金額に相当するかについては、比較対象の品物などにより、なかなか難しいのですが、ここでは7~8千円程度としておきましょう。

(『姫路市の百年』より)

分配金をもらった全員が参詣した訳ではないでしょうが、それにしてもなぜ姫路の廣峰神社なのでしょうか。
その理由について、姫路市在住の後輩(元高校日本史教員)に聞いてみたところ、次のような回答がありました。

素戔嗚尊(すさのおのみこと)(牛頭天皇:ごずてんのう)をお祀りしており、いくさの神であるとともに農業の神、百姓の神として広く播磨地方一帯の信仰を集めていた。
②例年4月18日の祈穀祭(穂揃え祭)では、今年の稲の占い(早稲、中稲、晩稲のどれがよいか)の神託があった。
③各種のお札や、お守りがあり、特に田んぼの水口に挿す害虫除け、農耕の牛馬安全のお札が知られていた。
④伊勢参宮をした後に、必ず広峯神社に参詣する風習が大正時代まであった。

(大正時代の絵はがき、祈穀祭には何万という参拝者があったという
『むかしの西播磨 : 絵はがきに見る明治・大正・昭和初期』より)

③については、『兵庫史の研究 : 松岡秀夫傘寿記念論文集』(『松岡秀夫傘寿記念論文集』刊行会編、神戸新聞出版センター、1985年)にも次のように述べられています。
    

東播を初め播州路一帯では広峯神社の信仰が強く、神社から護符、木、砂をもらって帰り、それをシバに挿して祭るのが普通であった。護符と土とは神社から配布するムラもあり、田植えの前に参詣して、受けて帰るムラもある。(中略)
いずれにしても、田を清浄にするという信仰である。

(「農業の近代化と農耕儀礼の解体」)

④については、小栗栖健治「播磨の古社 廣峰神社:播磨学講義②」(『播磨学紀要第22号』播磨学研究所、2018年)に次のように記されています。

伊勢参宮との関係
播磨では伊勢参宮から戻ってくると、廣峰神社へ「御礼参り」をする、かつてはひろく見られた風習でした。伊勢外宮の豊受大神宮は農耕神、廣峰神社も農耕神、伊勢講でも農耕と結びついた行事を行う所があります。(中略)広峯神社では、こうした風習を「二度回り」と称していました。

伊勢参宮は近年まで続いていましたが、広峯神社については、近隣で聞いたことがありませんでした。
やはり、農業自体の変化に伴い、この風習もその後消滅したのでではないしょうか。

大正5年から(1916)から昭和10年(1935)別途会計の帳簿を見ても、広峯神社参拝への分配金が記載されているのは、この年度だけでした。
ちなみに、この大正13年という年は、大正年間最大の大干魃の年でもありました。

 

   これは余談ですが、参詣は日帰りだったのでしょうか。
社町から加古川加古川から姫路までは鉄道を利用したでしょうが、駅から廣峰山上までの距離を考えると、健脚者でも片道に5~6時間は要したのではないでしょうか。

 

「自警団が組織される(昭和21年会同日記)」 ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ76 

終戦の明くる年、昭和二十一年 (一九四六)といえば、元日の天皇による「人間宣言」に始まり、4月には衆議院選挙で初の女性議員の誕生、5月には極東軍事裁判東京裁判)の開廷、11月には憲法公布等々と、大混乱の世相の中、民主化に向けての最初の年でした。
また、インフレと食糧不足が深刻化する中、民主化生活防衛のための大衆運動・労働運動が高揚し、ソ連(当時)や満州中国東北部)など外地から数百万人が引き揚げ、農地改革によって小作農のほとんどが自作農となっていきました。
    

米の供出を逃れようと田んぼの中に埋めた米俵も警察の摘発に遭う
秋田県にて『写真昭和30年史』〈毎日新聞社,1955年〉より)

前年の「昭和二十年 会同日記」には、一六二名の戸主名が記されていましたが、この年の初総会時には二十一名増の一八三名となっています。
組(隣保)の数も十四組のうち、字花折、字メンコ在住の人たちによって一七組が分離・独立しました。
外地からの引揚げ者、都市からの疎開者の定住、それに嬉野開拓などの転入者がその多くを占めていたものと思われます。
ちなみに、戸数は毎年増え続け、六年後の昭和二十七年(一九五二)には、二○四戸と記録されており、おそらく開村以来初めて二百戸を上回ることになりました。

さて、この年の会議録を見ていくと、下のように「自警団」の語が繰り返し出てくるのが目を引きます。

昭和二十一年初総集会 

一月十六日午前八時開会
協議事項
一  自警団組織ニ付協議ス
 部落内男子十七才ヨリ五十才迄ノ男子全部団員トシテ組織スルコトヲ申合セ、一月二十日迄ニ各隣保ヨリ団員資格者ヲ報告シ、二十一日夜自警団組織ノ為ノ会合ヲナス

 

一月二十日夜七時
一 山国部落自警団発会式ヲナス
部落内十七才ヨリ五十才迄ノ男子全部団員トシ、村内ヲ五班ニ分チ、三ケ隣保ヲ以テ一班トシテ左ノ役員ヲ設ク
団長一名 田中眞次
副団長二名 岡井太郎市 井上熊夫
班長五名 久井進次 北谷潔 藤原勇次 井上治 出井乙次
班長五名
組長十五名

一月二十一日ヨリ夜午後七時自(より)翌朝六時迄一組六名宛部落内六回巡視ナス
一 自警団費用寄付金
土木部長四名ノ努力ニヨリ部落各戸ヨリ別□寄附帳通リ寄付金ヲ得タリ
 自警団※六月二十~三十日頃迄継続とあり

 

十月十一日夜 常会
協議事項
一 自警団組織ニ付
十月十五日ヨリ十月三十日迄、自警団ニ依リ夜警スル様通知アリタル為通知ス

※下線は筆者。新字に改め、適宜読点を付けています。

「自警団」といえば、大正十二年(一九二三)に起きた関東大震災に各地で組織され、朝鮮人虐殺などの悲劇につながったことが知られています。
終戦直後のこの時期に、農村で組織された「自警団」は何を目的としたのでしょうか。
社町史』を初め、近隣各市の『市史』等を参照しても記述はなく、唯一『新修加東郡誌』(一九七四年)に次のような簡単な説明がありました。

太平洋戦争が終わり、ポツダム宣言の受諾とともに、連合軍が進駐し、敗戦による思想の混乱、そのうえ、食糧危機におちいり、いろいろな犯罪の激増など,加東郡という田園地帯までその影響は大きかった。   (通史編 第5章近代の加東郡 民生・福祉)

 

「自警団」という言葉こそありませんが、この年の犯罪発生状況を記した兵庫県警察史 昭和編』兵庫県警察本部、1975年)に有力なヒントがありました。
同書は、 昭和21年は「我が国犯罪史上最悪の年」として、凶悪犯の激増について述べた一方で、未曾有の食糧危機の下、農村部に頻発した「野荒らし」(農作物を盗むこと)についても記しています。

県下で昭和二十一年中に検挙した野荒らし犯人は1256人の多数にのぼる。しかもこの数字が発生のすべてではない。野荒らしはその性格から的確な発生状況を把握しにくく、実際の発生件数は、少なく見積もってこの二倍の二五○○件を超えたと言われる。

また、奥田博昭『昭和ドロボー世相史』 (社会思想社、1991年)には、6月16日の日付で、「”野荒らし”全国的に跳梁。猫の額のような都会地の家庭菜園から、農村の野菜畑までさんざんに荒らす」という記事があります。

 

というわけで、山国村でも畑の野菜などを盗まれる被害が続出し、警察当局などの指導で自警団を組織したのではないでしょうか。  

当地区は面積が広大で、目の届かない遠隔の場所にも畑を作っている農家が多くあったことから、そういう措置に至ったと思われます。

十月十一日の常会では「十月十五日ヨリ十月三十日迄、自警団ニ依リ夜警スル様通知アリタル為通知ス」とあります。
十月の下旬と言えば稲刈りの最中で、夜間の見回りは、昼間の仕事で疲れた体には酷だったのではないでしょうか。

 

※組織された自警団の班長の中に、祖父の名前がありました。当時は41才の働き盛りでした。

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ75 「隣保」制度の誕生(「昭和15年会同日記」より)

山国地区の自治会は、現在25の組から成り、各組は毎年輪番で組長を置いています。
この組のことを高齢者世代では「隣保」と言ったり、組長のことを「隣保長」と呼んだりしています。
「会同日記」を順に見ていると、昭和15年(1940)以前は10戸前後の家をまとめて、そこに「什長」(じゅうちょう)を置き、定期的に「什長会」が開かれていることがわかります。

ところが、「昭和十五年 会同日記」には、突然10月1日付けで下の写真のような「隣保組織扣(ひかえ)」が記されています。

村の東部には6つの組(隣保)、西部には8つの計14の組を置き、3つの組または4つの組ごとに部長を置いています。この組分けは基本的に現在まで継続しています。
戦後、嬉野開拓や新興住宅開発に伴って、いわゆる本村(ほんむら)周辺に15組から25組が増設されましたが、今に続く「組(隣保)制度」はこの年に決まり、翌昭和16年(1941)から実質的に運用されたとことになります。

 

では、「隣保制度」はどういう歴史的な背景のもとに出来たのでしょうか。
簡単にその背景や経緯をまとめてみました。

まずは、その大元にあったのは「新体制運動」でした。

新体制運動
1940年日中戦争のゆきづまりの中で,ドイツのナチス,イタリアのファシスト党一党独裁体制にならい一国一党的新党の結成が唱えられ,諸政党は解党した。第2次近衛内閣成立後,政党・官僚・軍部・右翼を包含して大政翼賛会が結成され,官僚の支配する国民生活統制の体制が形成された。(出典 旺文社日本史事典 三訂版)

この「新体制運動」推進のために、政府は昭和十五年九月十一日の内務省訓令による「部落会町内会等整備要領」を公布しました。
以下がその目的です。

(一)隣保団結の精神にもとづき、市町村内住民を組織結合し、万民翼賛の本旨にのっとり、地方共同の任務を遂行させること、
(二)国民の道徳的錬成と精神的団結をはかる基礎組織とすること、
(三)国策をひろく国民に透徹させ、国政万般の円滑な運用に資すること、
(四)国民経済生活の地域的統制単位として、統制経済の運用と国民生活の安定上必要な機能を発揮させること、

組織として、「部落会」および「町内会」「隣保」「常会」を設けました。

「部落会」は区域内全戸をもって組織し、「隣保」は部落会のもとに五人組などの古い習慣を尊重し、十戸内外の戸数で構成しました。

部落会の組織図

上の写真に見るように、「隣保」は行政の末端組織として位置づけられ、物品供出や配給などの諸連絡を行う最小単位となったのです。
また、村ではそれまでの「什長会」にかわり「常会」が組織され、もっぱら上意下達に利用されたというのが現実でした。

 

このとき、隣保内の連絡に使われ始めたのが回覧板でした。

回覧板は、国、県、市町村からの伝達事項を住民に周知徹底する道具であるとともに、住民にとっては、配給などの情報を知る戦時生活の要でもありました。
回覧板を受け取ると所定の位置に判をついて隣へ回しましたが、こうしたスタイルは基本的に令和の今にも継続されています。

隣組」の歌(「産経新聞」月刊正論オンラインより)

この当時、ラジオからよく流れていたのが、この隣組*の歌でした。

*農村部では一般に「隣保」、都市部では「隣組」とすることが多かった。

昭和15(1940)年6月17日に、日本放送協会(NHK)が制作する「國民歌謡」として発表された作品です。

 この歌は、制度としての隣組の意義を強調し、広報するための歌だったと言えるでしょう。

 

このとき、その筋の指示により「部落会」の役員が写真のように定められました。
時勢を反映して、「教化部長」「軍人援護部長」「警防部長」が任命されています。

筆者の曾祖父にとっては、4期8年の区長として最後の仕事だったようです。

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ74 「昭和18年は米の供出で大変だった!」

昭和十八年(一九四三)といえば、開戦三年目で連合軍の反攻が本格化し、召集や勤労動員が拡大した年でした。

二月 日本軍、ガダルカナル島の撤退を開始
四月 連合艦隊司令長官山本五十六ソロモン諸島上空で米軍機に撃墜され戦死
五月 アッツ島の日本軍守備隊2500人玉砕
六月 政府、「学徒戦時動員体制確立要綱」を決定
七月 国民徴用令改正公布 日本軍、キスカ島より撤退
十一月 マキン・タラワの日本軍守備隊5400人玉砕(司令官・柴崎恵次中将は旧加東郡上東条村〈現・加東市森〉出身)
十二月 徴兵適齢臨時特例公布され、適齢が19歳となる

 

米穀の管理制度は、この年までに以下のような経過をたどっていました。

昭和十四年(一九三九)「米穀配給統制法」公布 取引所を廃止
昭和十五年(一九四○)農林省令「米穀管理規則」により、農家は一定数量の自家保有米を除き、残る全ての米を決められた値段で国に売る義務(米の供出)が課される。
昭和十七年(一九四二)食糧管理法制定 主要食糧の国家管理を強化し、米穀の配給通帳制度を施行。

(「アジア歴史資料センターhttps://www.jacar.go.jp>glossary>tochikiko-henten

こうした米穀の国家管理統制の厳格化により、山国村でも割当米を供出するのに、関係者は並々ならぬ努力をされていたことが「会同日記」から読み取れます。
以下に見る一月から四月の記述は、前年の昭和十七年産米の供出に関するものです。
年初の初総集会に始まり、毎月の役員会や総常会などの議題に、毎回「米供出」の文言が見られます。

初総集会 一月十六日午前九時
一 管理米供出ノ件 供出スベキ様通知アリ 追々総集会ヲ開キ供出スルコト

 

総集会 一月二十日夜七時
一 管理米供出ニ関スル件  供出不充分ニ付審査会ヲ設ケテ徹底供出スルコト

 

管理米供出審議会  一月三十一日午前九時  終了翌午前一時
出席 区長、農会長、隣保長、藤原評議員
一 各戸別毎ニ実収反当量ヲ審査決定ス

 

管理米供出審議会 第二回目  二月五日午後七時  
一 前回ニ於テ審議決定ニヨリ供出数量ヲ算出 更ニ検討シ部落農会長ノ名ニヨリ供出通告書ヲ各出荷スベキ者ニ発送スルコトヲ決議ス

 

総常会 二月十一日夜
一 米供出ニ付注意

 

役員会  二月十四日夜七時半
一   米供出ノ件
曩(さき)ニ審議会ニヨリ農会長ノ名ヲ以テ米供出ヲ通告シタル其供出状況ヲ発表シタルニ其数半数ニ付更ニ未供出ノ隣保ニ協議供出セシムルコトトシ、十八日夜役員会開催ノコト

 

役員会  二月十八日夜七時半
一   米供出ノ件
割当量ニ不足シ居ル者アルモ本日申出ノ分モ合セ集荷分近日中ニ出荷スルコト
                     
役員会  三月十日夜七時半
一   米供出ノ件
割当ニ対シ出不足甚敷為(はなはだしきため)左記委員ヲ設ケ供出セシムル様努ム
※3~4隣保毎に、3名の委員(区長、評議員、役員経験者)を任命
   十二日より各班委員が活動開始

 

総常会 三月十七日夜
一 部落内ノ米供出状況説明
一 供出審議割当量未完了ノ向(むき)ハ記録ニ残シ、更ニ一般保有米量ノ一割ヲ供出スルコト
但シ情状ニヨリ斟酌(しんしゃく)ヲ加ヘントスル為審議会ヲ開キ委員ニ委(ママ)サレ度(シ)
一 収穫量保有米量ニ満タザル向モ、其申告量ト審議査定量トノ差額供出シ定メラレタル日ヨリ配給米ヲ受クルコト

 

米供出委員会     三月十九日午後○時ヨリ翌午前二時ニ至ル

 

婦人総会         三月十九日
一 社翼賛壮年団長出張 米供出ノ件ニ付講話ス
  * 大日本翼贊壯年團は、第二次世界大戦中の1942年に結成された大政翼賛会の傘下団体の1つ   

供出米集荷  三月二十二日
午前中ニ各隣保単位ヲ以テ集荷
割当ニ対シ不納者ナシ
町農会割当残数量三四一俵ノ□集荷二九○俵

 

役員会  四月二日夜
一 供出米割当数完納スベキニ付其方法
割当数供出スルコトニ決シ方法ハ四日ノ常会ニ於テ協議決定スルコト

 

総常会 四月四日午後一時よヨリ
一 米最終供出ノ件 (未出分五一俵)
反別ニ米数保有米ニ半数保有米ニ半数ヲ掛ケ
完納ヲ期スルコトニ決議

 

米供出委員会    四日夜
最終供出トシテ五一俵ヲ
反当九合宛 保有米ニ一升二合五勺ヲ掛ケタル計算ニ決定ス
供出割当数完納

 

十五日
一 供出米受検割当数量完納ス

新字体に改めています

この稔り この戦力 早稲の穫入れ 早くも始まる
米の供出方法が改まったことを伝える内閣情報局発行の「写真週報290」(昭和18年9月)

年明けから「完納」までの三ヶ月半の間に、のべ十四回もの各種会合、委員会などが開かれ、供出に向けての督励がなされています。
淡々とした記述ではありますが、区長を始め役員の皆さんのご苦労がしのばれる内容です。
整理してみると、大まかに以下のような経過となります。

一月 総常会で周知の上、管理米供出審議会で各戸割当を決定

(その際、深夜一時に及んだと記録されています)
二月十四日 供出状況 割当の半数に過ぎず
三月十日 供出委員を選出
  十九日 社翼賛壮年団長が来て婦人会総会で米供出について講話
  二十二日  集荷の結果、町農会割当341俵に対して51俵少ない290俵
四月四日・五日 米供出委員会では、不足分を「一反あたり九合、保有米には一升二合五勺」を乗じた計算で補うと決定。
  十五日 割当数量完納

 

米の供出制度が始まった翌年の昭和十六年(一九四一)の「会同日記」には、この年のような詳細な記録はありません。
社町史』も記すように、「軍隊に人手を取られ、肥料も不足する中で割当を消化するのは大変」(第二巻本編2、近代編・第3章近代社の生活)だったことでしょう。
さらに言うならば、この年は鶉野飛行場への出役がさかんに割り当てられた年でもありました。

この年から始まった「部落供出責任制度」(県ー地方事務所ー市町村ー農事実行組合のルートで、市町村長が部落単位に供出を割り当て、部落全体が責任をもって供出を完遂させる)というのは、まるで江戸時代の藩政下での石高制を思い起こさせるようなシステムでした。
そして、翌昭和十九年度からは、植え付け前の段階で割り当てが行われ、超過供出まで義務づけられるようになっていきました。

農家向けの雑誌「家の光」昭和19年11月号
表紙には米の供出に荷車を引く女性の姿が描かれている



   

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ73 昭和20年 終戦間近の会同日記より

 

総常会 五月二十三日夜
 

  一 鶉野出役ニ付割当人夫出役スルコト
  二  肥料配給ノ件
   三  公会堂 嬉野海軍療品所*設営隊ニ貸与スル事
   四  松根採取*部落共有林開放ノ事
   五 共同作業、共同飯ノ事
   六  家畜保険ノ件            
   七 麦摺(むぎすり)ノ件  石油ノ減配
   八  報告敏速セラル事        

    鶉野出役者日割  
       五月二十五日 各隣保ヨリ三名宛
        六月一日   ゝ  四名宛
        六月五日    ゝ  二名宛

  議題一の「鶉野出役」について。
当時の加西郡九会(くえ)村(現・加西市鶉野町)に昭和18年(一九四三)三月から建設の始まった姫路海軍航空隊の鶉野(うずらの)飛行場は、突貫工事のために周辺の加東、多可、印南郡から、多い時には日に千人以上もの勤労奉仕団が動員されました。
山国村でも、同年四月に初めて一隣保に5名ずつが割り当てられています。
完成後も終戦に至るまで、拡張工事や掩体壕(えんたいごう)*堀りなどのために、動員の割当は継続していたようで、婦人会への割当も記録に残っています。
現地までは、12~13キロもあり、途中には高岡の台地に上る急坂もあったりすることから、自転車での往復もなかなか大変だったことでしょう。

現在の飛行場跡(鶉野飛行場資料館ホームページより)


 議題三についてですが、嬉野に「海軍療品所」(正しくは「療品廠」)とありますが、これは海軍で使用する医療品の材料を製造する工場であったようです。
おそらく、完成前に終戦を迎えたと思われ、諸史料にその名は見られません。
工場の設営隊の寝泊まりに公会堂を明け渡したということで、その後の村の各種会合は熊野神社(権現さん)境内で行われています。
なお、この公会堂は昭和41年(一九六六)竣工の旧公民館と同じ場所にあったもので、「大正十年 会同日記」を見ると、「上棟式」の記載があり、その年に建てられたようです。

総常会 七月三十一日午後一時 熊野神社境内ニ於テ

  一 用水ノ件 草取  止草*ノ日時ヲ決メル
  二  木材五○○石当部落割当ニ関スル件
        谷田池東五反歩約五百石供出スル事ヲ協議セリ
   三  鶉野青野ケ原出役ニ関スル件
         鶉野八月六日二十五人出役
      青野ヶ原八月十日四十人出役
   四 蚊帳(かや)三 供出の件
   五 勝札(かちふだ)*二二枚 割当ノ件
 六  薪炭供出の件
 七 松根*供出の件
 八 新麦供出完納ノ件
 九 魚配給補給全徴収ノ件
 十 国民義勇隊戦闘隊*編成ノ件
      男子 十五才ヨリ六十才迄
      女子 十七才ヨリ四十才迄
      ヲ以テ編成ス 同幹部ノ選任ヲナス
    十一 部落葬 空爆下ハ自宅告別式トス

勝札(ジャパンアーカイブズより)

この日は火曜日でしたが、熊野神社の境内に総常会(総集会)ということで、全員出席であったとしたら一六二名もの村人が、真夏の日盛りに会同したということになります。
供出と出役(勤労動員)の記述がさらに増えています。
議題三では、これまでの鶉野に加えて、青野ケ原にも出役とありますが、ここは陸軍演習場として有名な所でしたが、後に戦車連隊が駐屯することになりました。
青野ケ原での出役の任務はどういう内容だったのか、『社町史』『小野市史』『加西市史』等にも、この時期の勤労動員の記載はありませんでした。

 議題十について。

国民義勇隊はこの年の3月に、防空および空襲被害の復旧などに全国民を動員するために作られた組織でした。
その後六月二二日に義勇兵役法」が公布・施行されて、「国民義勇戦闘隊」が発足しています。

本土決戦に備えようとするものであったようですが、間もなく終戦を迎えたため、当村では実際に編成されていないのではないでしょうか。

なお、四の蚊帳の供出ですが、何を目的とするものだったのかが不明です。

既に昭和15年(一九四○)頃からの金属回収の一環として、蚊帳の吊り手を供出していたという例が多く見られますが、何に使ったものでしょうか。

 

(注)
「配給」・・・日中戦争から太平洋戦争とつづく戦時体制下で,生活必需品の配給制が実施された。昭和13(一九三八)年,ガソリンが切符配給制となり、昭和15年からは,米・砂糖・マッチ・衣類などが切符や通帳で配給されるようになった。
「松根採取」・・・マツの切り株を乾溜し、松根テレビン油を採取、航空用ガソリン(航空揮発油)の代替物としての利用が試みられた。
学童から老人までが駆り出されて採取された松根も実際に活用されたかどうか不明なところが多いとされている。
掩体壕」・・・軍用機などを、敵の攻撃から守るためにコンクリートで造った横穴状の施設。
「止草」・・・田の草取りで三番草を取った後、二〇日目ぐらいに行なう最後の草取り。
「勝札」・・・昭和20年7月、政府は軍事費の調達をはかるため、富くじ「勝札」を発売した。1枚十円で1等は十万円が当たる。しかし、最終売り出し日は日本が終戦日の8月15日。抽せん日はそれ以降の設定だったため、皮肉にも“負札(まけふだ)”と呼ばれるようになってしまった。(宝くじ公式サイトより)