赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔に引き払って立派な玄関を構えている。家賃は九円五拾銭だそうだ。田舎へ来て九円五拾銭払えばこんな家へ這入(はい)れるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。頼むといったら、赤シャツの弟が取次に出て来た。この弟は学校で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。その癖渡りものだから、生れ付いての田舎者よりも人が悪い。 (八)
ある日、赤シャツ教頭から「話があるから、僕のうちまで来てくれ」と言われた坊っちゃんは、「温泉行きを欠勤して」出かけて行きます。そのときに取り次ぎに出てきた中学生の弟のことを、「渡りものだから~人が悪い」と言うのです。
そもそも、この「渡りもの」とはどういう意味なのでしょうか。
国語辞典には次のような説明があります。
一、 あちこちと渡り歩き、主人を替えて奉公をする者。
二 、 一カ所に落ち着かず旅をして回る者。
三 、他の土地から来て住んでいる者。よそ者。 (『日本国語大辞典』)
それにしても、「よそ者」(外部からの転入者)だから、「人が悪い」というのは、ずいぶんな偏見ですね。
思うに、これは封建社会において、村に定住している人たち(村人)が、非定住者のことを、経験上そのようなマイナスイメージでもって見ていたからではないでしょうか。
そして、そういう固定観念は明治以降もなかなか消えなかったということではないかと思います。
では、実際に小説では「渡りもの」がどう描かれているか、いくつかの例を挙げてみます。
1 、北海道の奥地の開墾地や、鉄道敷設の土工部屋へ「蛸(たこ)」に売られたことのあるものや、各地を食いつめた「渡り者」や、酒だけ飲めば何もかもなく、ただそれでいいものなどがいた。 (小林多喜二『蟹工船』)
2、体は丈夫で、渡者の仲間には珍らしい、実直なものだと云うことが、一目見て分かった。 (森鷗外『護持院原の敵討』)
3、よく旅で窮(こま)つたから給金は幾らでも好いなんてのが泣きついて来ますがな、わつしの家ぢや渡り者は一切使はねえことにしとります。渡り者てえ奴あ始末におへませんでなあ。」(宮地嘉六『煤煙の臭ひ』)
近代的な学問を修めたはずの坊っちゃんにしても、これらの作品ほどではないにしろ、「渡りもの」に対しては古くからの固定的なマイナスイメージを抱いていた訳です。
それにしても、坊っちゃん自身が明らかに「渡りもの」なのに、そんな自分のことを棚に上げて他人のことをあげつらうあたりが、いかにも坊っちゃんらしいとは言えますね。
流して歩く教師
漱石には『坊っちゃん』の他にも、中学教師が登場する作品があります。『吾輩は猫である』(中学の英語教師・珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)の家に「猫」は飼われています。)は有名ですが、もう一つ。
それは雑誌「ホトトギス」に明治四十(一九○七)年に掲載された中編小説『野分』です。ただし、こちらは厳密には元中学教師ではありますが・・・。
白井道也は文学者である。
八年前大学を卒業してから田舎の中学を二三箇所流して歩いた末、去年の春飄然(ひょうぜん)と東京へ戻って来た。流すとは門附(かどづけ)に用いる言葉で飄然とは徂徠(そらい)に拘(かか)わらぬ意味とも取れる。(中略)始めて赴任したのは越後のどこかであった。(中略)次に渡ったのは九州である。(中略)第三に出現したのは中国辺の田舎である。(中略)七年の間に三たび漂泊して、三たび漂泊するうちに妻君はしだいと自分の傍(そば)を遠退(とおの)くようになった。 (太字 筆者)
四国の中学校で、一ヶ月ほどしか勤まらなかった坊っちゃんに比べれば、ずいぶんましですが、この主人公も行く先々で様々なトラブルを引き起こして、東京に舞い戻っているのです。
なんと、七年の間に越後(新潟県)、九州、中国地方と三度も任地を替えたといいいます。
明治三十七年十月調べの『全国公私立中学校に関する調査』(文部省普通学務局)によれば、当時、官公私立併せて中学校数は二百六十七、生徒数約十万三千、教員数五千百四十四人という数字が挙がっています。
当時は、中学校の急増期に入っており、わが兵庫県においても、姫路・神戸・豊岡・洲本・柏原・龍野・小野・伊丹の県立八校と私立鳳鳴義塾の計九校という体制が整ったのでした。
その頃の教員の異動は、県内の異動よりも他府県への、それも遠隔地への異動がごく普通であったようです。
その背景には、上述のような中学校の急速な拡大に伴う絶対的な教員の不足、優秀な教員の引き抜き、また一方では、より良い待遇を求める教員側の事情もあったと言われています。
そうなると、必然的に同一校での在任期間は短くなってきます。
私の母校の前身で、明治三十五創立の旧制兵庫県立小野中学校(上の写真・正門)について、同窓会の名簿で明治末期十年間(明治三十五~四十五年・一九○二~一九一二)の教員の在任期間を調べてみました。
すると、「在任期間が三年以内」という教員が、全体の四十二%にも上っていることが分かりました。
現代でも、校長、教頭といった管理職は三年前後での異動が普通ですが、一般の教員については、よほどの事情がなければ、そんなに短期間での異動は考えられないものです。
「流して歩く」はさすがに大げさですが、どうやら明治の中学校教員にとっては、より良い勤務条件を求めて、比較的短期間での異動は、ごく普通のことであったものと思われます。