往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム6 「校友会の運動部活動」

  現在では、「○○大学校友会」などと、同窓会組織をさすのが普通ですが、旧制の高等教育機関中等教育機関では、生徒たちが全校的規模で参加して課外活動を行う組織を、「校友会」と称していました。
 生徒及び教職員が会員となり、学校長が会長でした。また、各部の部長(顧問)には教員が充てられていました。
 現在の中学校、高等学校の部活動と同じく、文化系の部と運動部から構成され、文化系の部としては、雑誌部(編集部、文芸部などとも。主に校友会雑誌の編集を行う。)と弁論部(演説部、講演部などとも。)がほとんどの学校に置かれていました。

 一方、運動部では、撃剣部(剣道)、柔道部柔術)の他に、外来のスポーツの中では、野球部(ベースボールとも)がほとんどの学校で創部されています。それに続くのが、庭球(ローンテニスとも)と端艇部短艇、漕艇、ボートとも)といった状況でした。

 

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(写真は旧制新潟中学校撃剣部、新潟高校剣道部OB会ホームページより、http://www.ao-ken.com/2007/01/post_2.html

 また、珍しい部としては、「兎狩(うさぎがり)」(鳥取中学)、「遠足」(高松中学、金沢一中など)、「詩吟」「軍歌」(熊本中学)といったものもありました。
 意外なのは、現在子どもや若者にとっては、野球を上回る人気を誇るサッカー部(当時はフートボール、蹴球などとも)をもつ学校が少なかったことです。「サッカー」という名称が定着したのも、大正期半ば以降のことでした。
 野球やテニスなどのスポーツは、もともと寄宿舎に入っている生徒たちを中心に、放課後や休日の気晴らし、レクレーションの一つとして、自然発生的に始まったものでした。

 中学校が急速な拡張期に入る明治三十年代には、帝大や高等師範などの高等教育機関で、西洋から導入されたスポーツを経験した教師たちが、全国各地に赴任し、それらのスポーツを普及させるとともに、レベルアップにも貢献しました。

 その背景には、明治二十六年(一八九三)に高等師範学校(後の東京高等師範学校、現在の筑波大学)校長に就任した嘉納治五郎(かのうじごろう、下の写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

の存在がありました。嘉納は、「教育の総本山」と呼ばれた同校の教育が形式的に過ぎるとして、改革の一方策として、課外における運動を奨励したのでした

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 また、同校は様々な種目の大会を主催するだけでなく、実技の講習会を開催するなどして、地方へのスポーツの普及と競技レベルの向上に大きな役割を果たしました。
    こうして、明治末年にかけて、中学校の運動部活動は、種目の幅も広がり、各地で益々盛んになっていきました。当初は、近隣他校との間で練習試合を行う程度であったものが、地区大会への参加という風に、次第に活動の範囲も拡大されていきました。

 例えば、明治二十九年(一八九六)に創設された兵庫県神戸尋常中学校(後に兵庫県立神戸中学校、現在の県立神戸高等学校)の野球部は、当初近隣の私学、師範、商業学校、クラブチームと練習試合を行っていました。
 ところが、それから五年後の明治三十四年(一九○一)には、早くも大阪での関西五中学野球リーグ戦(他に堂島中学、天王寺中学、京都一中、丸亀中学が参加)に出場するに至っています。夏の甲子園大会の開始は、大正四年(一九一五)と、もう少し先になりますが、この間に中等学校の野球はすさまじい勢いで発展していったものと思われます。

 

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(明治40年代の旧制松本中学校ー現在の松本深志高等学校ーの野球部、背後は松本城http://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201805020000629.html

 当時の教育界では(今でもそうかも知れませんが)、運動部の活動は「厳しい練習に耐え抜くことが、人間形成に役立つ」といった考えが支配的でした。また、世間一般にも「中学生が適度に運動もしないでブラブラしていると、非行に走りがちだ」いった考え方が広く受け入れられていました。
 運動部の活動は、そうした社会の風潮を背景に発展していったわけですが、反面で過熱化にともなう弊害も指摘されるようになっていきます。「選手制度の弊害」、「勝利至上主義」、「過剰な学校対抗意識」などといった言葉で表されるものでした。

 中でも、東京朝日新聞「野球害毒論」の論陣を張り、執拗に野球批判を行いました。さすがに当局も看過できず、北海道では明治四十三年(一九一○)年、庁立の中等学校野球の対外試合が禁止されてしまいました。それは十年近く続いたということです。
 ところが、皮肉なことに、大正四年(一九一五)に、今度は大阪日新聞が主催して「健全な教育活動の一環としての中等学校野球の確立」を目指して、夏の甲子園大会(全国中等学校優勝野球大会)を始めています。

 どうも、このあたりは、背後に「大人の事情」とでも言うべきものがあったのではと思われて仕方ありません。
  校友会活動に端を発して、独特の歴史的背景をもつ「部活動」ですが、近年では「ブラック」という言葉を目にするようになりました。
 さて、今後はどのような方向へと向かっていくのでしょうか、気になるところではあります。