往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

11  その2「士族と平民」

 いつ頃まで続いたのでしょうか。その昔、卒業証書には、「愛媛県士族」とか「東京府平民」などという風に、本籍だけでなく「族籍」も記入されていました。
 また、教員の名簿等にも「族籍」の記されているものが多く見られます。

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山口県立徳山中学校 明治四十年の卒業証書https://auctions.yahoo.co.jp/

 昭和の戦前まで、「族籍」には華族・士族・平民の三つの区分がありました。明治五年(一八七二)当時、我が国の総人口は33,110,796人でしたが、そのうち士族(旧卒族を含む)は,941,241人で、総人口に占める比率は5.86%でした。約三十年後の明治三十六年(一九○三)には、それが4.64%とやや減少はしています。
 

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 http://gakusyu.shizuoka-c.ed.jp/shakai/meiji/08_meiji_mibunseido.html  )

 しかし、明治時代を通して、中央省庁の官吏を始めとして各界のエリート層において、士族は高い占有率を維持し続けていました。

 教員の世界においても、明治期半ば頃までは、士族の占める割合は相当に高いものがありました。明治十五年(一八八二)には、小学校教員の約四十二%、中学校及び師範学校教員にあっては約七十九%が士族であったというデータが残っています。(『日本帝国統計年鑑』)
 継承する家業がなく、家産にも恵まれていた訳ではない多くの士族にとって、とりあえず教職というのは、旧藩の藩校や漢学塾、洋学塾での学修歴を生かすことができる最適の職業だったのです。

 『坊っちゃん』が発表された明治三十九年(一九○六)の『三重県立第一中学校一覧』(現在の県立津高等学校)は、学歴と族籍をともに記載しており、当時の教員の「氏素性(うじすじよう)」が分かるという意味で、大変興味深い資料です。

   

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 (校長以下の高等官ー奏任待遇のことー4名は帝国大学、高等師範の出身者となっています。)

 次に、生徒の族籍ですが、菊池城司氏の研究によれば、尋常中学校における族籍別生徒在籍比率は、明治二十一年(一八八八)には華族(0.1%)、士族(50.55)、平民(49.4%)であったものが、十年後の明治三十一年(一八九八)には、華族(0.1%)、士族(32.3%)、平民(67.6%)と、大きな変化を示しています。
 

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 背景には、中学校の増設と軌を一にして、地主層、自営商工業者などの間で、子弟に中学校教育を受けさせようとする機運の急速な高まりがあったということです。(菊池城司「近代日本における中等教育機会」、教育社会学研究22、一九六七年)
 なお、上記は全国平均の数値ですが、これを地域別に見ると、東北、中国、四国は概して士族の比率が高かったようです。
 『全国公立尋常中学校統計書』(三井原仙之助、明治三十一年、富山房)によれば、愛媛県尋常中学校の場合も士族四十四%、平民五十六%となっており、やはり全国平均よりも「士族率」は高くなっています。
 ちなみに、最も「士族率」が高かったのは、鹿児島県第一尋常中学校(現在の県立鶴丸高等学校)で、士族八十四.八%、平民一五.二%という数字が残っています。(元々士族が人口の3割を占める土地柄にもよるものと言われています)
 いずれにしても、まだまだ生徒の半数近くは士族の子弟という時代でした。何かにつけて思い込みの激しい坊っちゃんですが、生徒たちを「土百姓」(の子弟)と決めつけてかかるのというのは、あまりにも軽率というほかはありませんね。

 

第11章 参考文献 *国立国会図書館デジタルコレクション

荒正人漱石研究年表』集英社、一九七四年

*『三重県立第一中学校一覧』一九○六年

菊池城司「近代日本における中等教育機会」、教育社会学研究22、一九六七年

 

ヤフオクに明治時代の卒業証書がたくさん出ているのには驚きました。正直に言って、売る方、買う方の気が知れません。

ちなみに、掲載したものには、1日経過して3000円の値がついていました。