往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

コラム12  「宮沢賢治の中学入試」

 宮沢賢治は明治42年(1909)4月、岩手県盛岡中学校に入学しました。 
 受験の様子を、その年の入試問題も紹介しながら、たどってみたいと思います。

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(盛岡中学1年時の賢治、前列左)

3月31日(水)  午後、母、妹とともに花巻の家を出て汽車で盛岡に向かう。紺屋町の旅館・三島屋に泊まる。

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岩手県立盛岡中学校、明治18年に校舎完成)
4月1日(木)  午後1時 生徒控所集合
    2時15分~3時45分  「算術」(90分)

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4月2日(金)    午前10時  「算術ノ点ヲ基トシテ不合格者約百名落第」の掲示があった。 (定員130名に対して志願者334名、上記の不合格者98名)

 ※受験生が多い場合、算術による足切りがよく行われていました。

午後  「作文」(90分)
   ▲作文 (一)終業式の記 
     (二)右の口語文を候文に書き改めよ。  

お二人ともひごろおできなさるのでございますから改めて御勉強なさらないでもよいかとぞんじますがねんのため今まで習ツていらツしやツたことをよくおさらひなさいましたらじゆうぶんだろうとかとぞんじます(但し作文にて習字の点をも取る)
 ▲書取 

(一)歴史をソンソーせよ(二)蜜蜂の食物は蜜とカフンなり(三)センダンは二葉よりかうばし(四)鉄瓶のイガタ(五)大砲をハツシヤす  (右のうち片仮名にて書きし言葉だけを漢字にて書くべし)
  ▲摘字 

(一)醸造(二)一手販売(三)中央気象台(四)最期(五)命を塵と戦ひぬ(右読み方及び解釈を附すべし)
     ▲解釈

かくて夜しのびて城に入らんとしたるに不幸にして敵に見出されてとらへられたり敵将勝頼強右衛門に向かひてわれなんぢに重き賞を与ふべければ明日城際に行きて家康公は目下多事にして助くる暇なしと云はれたりと云へしからずはただちになんぢを烹殺さんといひたり強右衛門いつはりて之を諾せり

 4月3日(土) 休み

4月4日(日) 午前8時~  口頭試問 体格検査
        午後4時   合格発表(134名)

       発表を見た後、父と制帽と徽章を買いに行く。
  後に ”中の字の 徽章を買ふと つれだちて なまあたたかき 風に出でたり”という短歌を詠んでいます。

 

*引用・参考文献
小川達雄『盛岡中学生 宮沢賢治河出書房新社 2004年
 武藤康史『旧制中学入試問題集』ちくま文庫 2007年

 

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 明治40年に尋常小学校は6年制になっていました。賢治は42年3月に花巻尋常高等小学校卒業しました。成績優秀で「高等小学読本」などを与えられたということです。

 さて、問題の難易度について。

   賢治は「国語の問題は少しできなかったが、算術はみなできたと思う。」と父に語ったということです。

  書取問題の「センダン(栴檀)」「イガタ(鋳型)」は小学校を終えたばかりでは相当に難しいと思われます。「候文に改めよ」というのは時間のかかる問題ではないでしょうか。

 問題の中で違和感のあるのは、書取問題の仮名遣いです。「ソンソー」(尊崇・そんすう)がそれです。今なら、「ソンソウ」と表記するところです。

 実は、第一期国定教科書の使われ始めた明治37年度から、文部省では「字音かなづかいを表音的にする」(例:優勝=ゆーしょー)という方針をとりました。

 しかし、反対も多く、明治43年度からの第二期国定教科書では、仮名遣いは改定され、例えば「学校」は「がっこー」から「がくかう」となりました。

 賢治たちは第一期の教科書で学んでいたのでした。