学士の値打ち
その昔 、「学士様ならお嫁にやろか」というフレーズがあったのをご存じでしょうか。大学卒業人口の極めて少なかった明治から昭和戦前までの時代にあっては、「学士」は今の「博士」も足下に及ばない超エリートだったのです。
『坊っちゃんの通信簿』(村木晃、大修館、二○一六年)では、その辺りの事情が詳しく述べられています。
そこでは赤シャツ教頭が帝国大学文科大学を卒業して文学士となったのが、明治三十三年(一九○○)と仮定されています。
この頃、我が国の「大学」は東京と京都の二帝国大学のみでした。そして、同年の卒業生は、東京帝国大学が389人、京都帝国大学が39人。合計428人の学士が誕生したに過ぎません。
中でも東京帝大の文科大学は、もともと定員、入学希望者ともに少なく、下の表のように、明治十九年(一八八六)の帝国大学令公布以後十五年の間に四百名余りの「文学士」が誕生しただけでした。
明治二十六年、英文学で「1」とありますが、これが夏目金之助(漱石)です。漱石は我が国で二番目の英文学専攻の文学士というわけです。
写真は明治三十三年の法文科大学:(「写真の中の明治・大正」国立国会図書館)
帝大出と高師出
明治時代半ば頃の尋常中学校教員について漱石は、「何処(どこ)にて修業したるや性の知れぬ者多く僅(わず)かの学士及び高等師範学校卒業生を除けば余は学識浅薄なる流浪者多し」(「中学改良策」、明治二十五年)と述べて、その資質に強い不満を示していました。
また、帝大出と高師出の教員について、両者を比較して「学士にして中学教員たるものは学あれども教授法に稽(なら)はず、高等師範学校卒業生は教授法精(くわ)しけれども学識に乏し」とも述べています。
このような見方は、戦前の中等教員の資質に関して、よく見られた論調ではありました。
「教育の総本山」たる高等師範の出身者は「中等教員中の本流」を自負する存在ではありましたが、卒業者数は意外と少ないのです。たとえば、高等師範学校時代(明治二十三~三十三年、広島高等師範は未設置)では、計二九○名と、年平均三○名に届きませんでした。
一方、帝国大学はこの間に、文科大学で三三二名、理科大学で一八五名の計五一七名の卒業生を輩出しています。
もちろん、高等師範と違って中等学校教員以外の方面にも多数進出はしていましたが、帝国大学は「中等教員の専門養成機関としての高等師範学校の正統性を脅かすのに十分な」(天野郁夫『大学の誕生』(上)、中公新書、二○○九年)存在となっていたのです。
それでは、ここで公立中学校における、帝大出、高師出の比率を見ておきましょう。
「校長教員資格及出身に関する調」(『全国公立私立中学校に関する諸調査』(明治三十七年十月調、文部省普通学務局)で確認してみます。
有資格者、無資格者を合わせた全教員に対する帝国大学卒業者の比率は約五%、一方、高等師範学校卒業生のそれは約八%で、合計でも約一三%程度でありました。
しかし、この割合は次第に増えて、昭和十年(一九三五)には、官公立大学(帝大、文理大等)の卒業生は約一四%、高等師範学校卒業生は一六%と、両者の合計が約三○%を占めるようになっていきます。(桜井役『中学教育史稿』)
帝国大学(帝大)、高等師範学校(高師)の卒業生について、その給与、勤務学校、昇進などを分析して、戦前における中等教員社会の階層性を明らかにした山田浩之氏(広島大学)は、両者の関係について、以下のような興味深い考察をしています。
(1)帝大卒業生,高師卒業生はその他の学歴の者よりも優遇されていた。また,学歴によって、「帝大>高師>専門学校>文検」という階層性が生じていた。
(2)帝大卒業生は特に優遇され、給与、昇給、主要校(大規模校)の校長占有率などにおいて、高師卒業生よりも優位に立っていた。
(3)中等教員社会において、高師卒業生は帝大卒業生よりも待遇、地位の面で下位に置かれていた。
そのため、高師卒業生が自身の地位を向上させ、その勢力を拡大するには、学閥(茗渓閥・・・東京高師、尚志閥・・・広島高師)に頼らざるを得なかった。(「戦前における中等教員社会の階層性― 学歴による給与の格差を中心として ―」、教育社会学研究第50集、一九九二年)
第7章 参考文献
*印は国立国会図書館デジタルコレクション
*『明治三十四年東京帝国大学一覧』
天野郁夫『大学の誕生』(上)、中公新書、二○○九年
*「校長教員資格及出身に関する調」(『全国公立私立中学校に関する諸調査』(明治三十七年十月調、文部省普通学務局)
*桜井役『中学教育史稿』受験研究社増進堂 一九四二年
山田浩之「戦前における中等教員社会の階層性― 学歴による給与の格差を中心として ―」、教育社会学研究第50集、一九九二年