往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラムその8 「日露戦争と中学生」

 日露戦争(明治三十七年〈一九○四〉二月八日~明治三十八年〈一九○五〉九月五日)中に中学生たちはどんな体験をし、また戦争は彼らの生活や意識にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。いくつか紹介してみたいと思います。
 

出征兵士の見送り
 出征兵士を送る行事に生徒たちは動員されました。陸軍の師団(連隊)や鉄道の主要駅が近くにあった学校では、特に盛大な見送りをしたということです。
 その一つ、福岡県立修猷館(しゅうゆうかん)中学校(現在の県立修猷館高等学校)では、近くの福岡第二十四連隊の出征に際して、三年生から五年生までに対して、深夜十二時に集合という「校命」が下り、提灯(ちょうちん)行列で見送りました。(『修猷館物語』) 
    第十師団が近くにあった兵庫県立姫路中学校(現在の県立姫路西高等学校)の卒業生は、次のような回想を残しています。

 京口の校舎の前を出征軍が通る。一同校門前に整列して万歳と叫びます。(中略)南山だ得利寺だといってはヤタラに提灯行列をやり、凱旋将軍が姫路駅を通過せらるる時は、何時でも夜中でしたが、停車場のプラットフォームで万歳をやりました。
 姫中二十回 小泉種秋  (『姫中・姫路西高百年史』)

 出征兵士の見送りは連日のように全国各地で繰り広げられましたが、新潟県立長岡中学校(現在の県立長岡高等学校)では、見送り時に生徒たちが大声で「万歳」の歓呼を繰り返すのみで、高等女学校の生徒のように軍歌を歌えませんでした。
 それを見た校長が急遽唱歌の授業を取り入れ、指導を女学校の音楽教師に依頼したというエピソードもありました。(桜井役『中学教育史稿』)

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(写真は日露戦争出征列車、「ジャパンアーカイブズ」https://jaa2100.org/entry/detail/041720.html

 

■旅順陥落と発火演習
 明治三十八年(一九○五)一月一日に旅順が陥落すると、日本国中が祝勝に沸き立ち、連日各地で提灯行列や旗行列、祝勝会などが盛大に催されたことはよく知られています。
 そんな中、群馬県立高崎中学校(現在の県立高崎高等学校)では一月十日、さっそくに四・五年生が参加する、「祝勝空砲発火演習」を実施しています。
 また、その年の運動会には、「旅順陥落」や「満州占領」といった種目が登場するなど、戦勝ムードはなかなか冷めませんでした。

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(写真は栃木県立栃木中学校、明治四十四年の発火演習)

 

■中学生の軍事熱ー新聞と雑誌ー
 日露戦争における新聞報道は、国民の戦意高揚に大きな役割を果たしました。各新聞社は発行部数を飛躍的に伸ばしたと言われています。当時の中学生が、連日の戦果の記事に一喜一憂していたことは、残された日記からはっきりと読み取れます。(『日露戦争と中学生ー「山岡信夫日記」と創作雑誌「海乃少年』)

 

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(ー日露戦争に沸く日本ー旧制岸和田中学生徒は日露戦争をどう見たか? 同書「帯」より、清風堂書店、2017年、山岡信夫氏は毎月「日露戦争実記」博文館、定価10銭ーを購読していたようです。)

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 (http://www.sakanouenokumo.com/jikki.htm)

 

    また、中学生向けの雑誌においても、軍事熱をかき立てるような様々な情報が提供されました。
 雑誌『中学世界』(博文館)は、もともと文芸投稿や受験情報の提供を主な目的としていましたが、明治三十七年(一九○四)十月発行のものには、次のように戦争関連の記事が目立ちます。

写真:「占領当日の遼陽市街」、「万里の長城と我が斥候騎兵」、「奉天に於けるコサック兵」など、

評論:「日露戦争と年少子弟の任務」、
連載戦史:「日露交戦史」、報告:「従軍雑記」、広告:「日露戦争写真帳」等々

 

■軍事講話・戦利品
 明治三十九年(一九○六)、政府は毎年三月十日(奉天入城日)を陸軍記念日に、五月二十七日(日本海海戦日)を海軍記念日に定めました。
 明治四十三年(一九一○)に発せられた文部次官通牒は中等教育以上の諸学校に対して、その両日に陸海軍の将校などを招いて軍事講話を実施するよう指示しています。
 また、戦利品の下賜(かし)についても、各地で通達が出されました。兵庫県では「軍人ノ功績ト偉業トヲ周知セシムル方法ヲ講ゼラレ度(た)シ」との内務部長通達により、県立姫路中学校の場合、砲兵刀、連発歩兵銃など十四品が下付されました。

 

軍学校進学希望者の急増
 日露戦争では、軍国美談の創作、「軍神」の誕生などによって、国中に軍人崇拝のムード(軍人熱)が高まり、中学生たちも大いにその影響を受けました。
 それは陸軍士官学校海軍兵学校といった将校養成機関への進学希望者数の大幅な増加という形に現れています。
 陸軍士官学校では、開戦時の明治三十七年(一九○四)から採用者数、志願者数ともに急増しています。戦後の明治三十九年(一九○六)には、それまで二~六倍程度だった入試の倍率が、一○・四倍と初めて一○倍を超えました。
 海軍兵学校においても同様で、それまで七~一五倍程度だったものが、戦争が終わると約一九倍になり、さらに明治四十四年(一九一一)には、二十九・四倍と、明治年間では最も高い倍率を示すに至りました。

 

# 大阪の北野中学校でも、日露開戦以降、学校行事としての講演会において、毎年軍事関連講話が行われていました。

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 大正期に入ると軍事関連は一旦減りますが、昭和に入り満州事変(昭和6年:1931)以降、再び増加します。

 しかし、講師が凄いですね❗️

井上哲次郎田中義一新渡戸稲造・・・

大阪府立北野高校「六稜同窓会」ホームページより