往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ17 昭和14年の大干ばつ②

※前回からの続き

(七月)
二十四日 昼、原田(池)係、口ノ森(池)会合ス
(中略)夕方ヨリ二十五日ノ朝迄ニ少雨アリ、二三分降ル。
大叔父池(王子池)係リハ夜会合シ、大叔父池(王子池)係リハ戸前御酬料納済ノ田水米田及余田坂村田全部断水スル事二一決ス
二十五日 朝、宝池、一時留ル□□□夜抜ク
     夜、役員会 前夜ノ決定事項ニ付、水米田ト戸前恩酬料納済ノ田水トニ何等ノ等差ナキハ余リ酷ナリト、区長責任ヲ以テ開催シ、不折悪ク区長急病ニテ欠席、為ニ流会ノ止ムナキニ至ル。
二十六日 午後、総集会開催。前夜ノ議題ニ付協議ス。前夜役員会ニ於テノ議題二付協議ノ結果、余田坂恩酬料納附田ハ今後一回ダケ給水ナシ、其他ハ原田(池)係同様迄亀裂セザル程度二給水継続スル事ニ決ス。
此朝、奥新池荒樋ヲ抜ク。午后、降雨アリ六分程降ル。三時、樋ヲ留ル事。
二十七日 雨休ミ
二十八日 晴天
二十九日 晴天 朝、各池樋ヲ抜ク
三十日 晴天 祇園祭
三十一日 午後四時ヨリ大夕立アリ。約二寸程降ル。各池樋ヲ留ル。

口ノ森池

(八月)以降は内容を摘記
一日 晴天 雨休日
二日 朝、少々降る
三日 晴天
四日 朝、各池樋を抜く。三日半、水を留める。
五日~七日 晴天
八日 午后夕立あり。
九日 晴天 朝、樋を抜く
十日 原田池・口ノ森池係 今後十日間で給水予定は二回と決定
   王子が池係 当番の人数を増やし、各田毎に札を立て、給水日を記し、「番水の方法」(1)によることを決定
 王子が池 水量 「中樋ニノ棚ノ上少々」 中新池は六合 約二十日間給水できる予定
十一日~十四日 晴天
十五日 朝、区長、各池を見る
 下り藤 中樋、八ノ子ノ下三寸の所、天より一尺七八寸
 口ノ森 中ノ棚下七八寸の所
 奥ノ森 なし
 古原田池 残り一尺程度使用可(但し溝さらえすれば)
 新原田池 イヌイの立樋の天より一尺五寸下
     右同二尺五寸ほど使用可能
 宝池(谷田池) ニノ棚下五六寸の所   三日間ほど抜ける見込み
 奥新池 スッポンの所
 中新池   ニノ棚上五六寸の所     三日間ほど抜ける見込み
 大叔父池(王子池) 中樋の二の棚ノ所 但し中樋の泥樋の敷まで六尺
 一日平均五寸ずつ使用するとして十二日間使用できる見込み
 
十六日 晴天
十七日 晴天 此の夜、雨乞の祈願を熊野神社にて行う 酒六升(2)

熊野神社(「全国熊野神社参拝記」より)

十八日 晴天 夜、総集会
   原田・口ノ森池係より新原田池の底水を動力(ポンプ)によって揚水して、同係の不足を補いたいとの申し出あり、協議の結果、承諾。経費は同係と村とで折半することに。
奥新池は水落ちきり、雑魚採りをなす。
十九日 晴天 
二十日 晴天 宝池落ちきり雑魚採りをなす。
二十一日 晴天 口ノ森池落ちきり雑魚採りをなす。 
二十二日 晴天 夕立模様 夕方少雨あり。
二十三日 晴天 少雨なし。
二十四日 晴天 王子池、原田池を見る
 王子が池、大樋の上の棚の下の所 中樋は立樋一尺七八寸上がる
 十五日から九日間で約4尺減水(一日約五寸の割合)
 新原田池 大樋の上の棚の下側の所
      揚水、三昼夜に約二尺五寸減水、残り一日

東畑(小字名)あたりでは、七月二十日より断水し、二十一日・二十六日少雨あり。三十一日大夕立あり以来本日まで少雨もなく「干害多大ナレドモ全ク枯死セルモノ三分ノ一、少シ見込ノアルモノ又三分ノ一、未ダ余命ヲ継続セルモノ三分ノ一程アル見込ナリ」但し、肥料の多少の関係なり。
二十五日 晴天 新原田池の揚水停止。四昼夜で減水約三尺五寸。
午前、ヲシ池(場所不明)の水を人力にてかえて給水
午後。古原田池を同様に人力にて給水。

二十六日 晴天     前日同様、古原田池へ給水
二十七日 晴天 風強し
二十八日 旧盆の十四日 晴天 風強し このため田の水大いに減水
二十九日 晴天
三十日 旧盆の十六日 晴天 午後、王子池雑魚採り
此の日、水量は大樋中の棚下、七八寸の所
中新池も同じ
三十一日 晴天 「夕方ポロポロト降ル 朝六時婦人会員原田池前二テ前雨乞ノ御礼併而雨乞ノ祈願ス」

(注)
1  「番水」 かんがい地域を適切に区分し、それぞれに限られた時間ずつ、順番にかんがいすること。 一般 に干ばつ時に行われるが、水不足地区では常時行われることもある。

2 酒六升 熊野神社に祭礼で酒を供える場合、普通は拝殿と八坂社で一升瓶2本。六升とは多いように思いますが、「雨乞ノ祈願」とは、どういう内容であったのでしょうか。

社町史』では、他の地区での干ばつ時の記述がありますが、そこでは「千度参り」(社寺に参詣し、境内の一定の距離を千回往復し、そのたびに祈願をこめること)を行ったと記されていることから、同じようなことが行われた可能性はあります。

 

記述によれば、七月三十一日に「大夕立」、八月八日に「夕立」があって以降、二十二日まで、全くの晴天続きであったようです。
この間、「番水の法」をとったり、動力ポンプによる揚水を行っています。

旧盆の十五日には、区長自ら各池の状況を見回って記録していますが、池の数が多く、また自宅から歩いて行ったと思われますので、当年還暦の区長さんにとって、真夏の視察はかなりハードな仕事であったと思われます。(当時の60歳は、今の感覚では70台半ばくらいに相当するのではないでしょうか?がっしりとした体格の丈夫なお方だったと聞いていますが・・・)

 
小さい池から順に水が「落ち切」ったために、「雑魚採り」(じゃことり)を行ったという記述が何度も出てきます。
 本来ならば、冬場に溜め池の水を全部抜いて、大掃除を行い、併せて魚を捕るというもので、昔は村人の楽しみの一つであるとともに、採れた鯉や鮒などは貴重なタンパク源でしたが、旱魃のためにそれを真夏に行ったということですから、暑くて大変だったことでしょう。
 子どもの頃には、その様子を見た記憶がありますが、今溜め池の管理のために水をすべて抜いても、鯉や鮒はごくわずかで、ほぼ外来種ブルーギルブラックバスばかりでしょう。

各池の水の状況を記した中で、例えば「ニノ棚下五六寸の所」などという記載がありますが、これなどはそれぞれの池の構造を知っていないと書けないことで、担当の係から聞いて記述したものか、それとも自分が把握していたものか、ちょっと気になりました。