往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

コラム9 「中学校に行きたかった若者たち」

 明治四十年(一九○七)に尋常小学校六カ年が義務教育になるまでは、尋常小学校四カ年を経て、高等小学校(四年制)二年修了が中学校への入学資格でした。
 明治の前半にあっては、この高等小学校への進学も庶民にとっては、なかなかハードルの高いものでした。高等小学校を卒業していた私の曾祖父(明治十四年生まれ、自作地主)が生前に母に語ったところでは、「(明治二十年代では)尋常小学校を終えて高等小学校へ行くのは村に一人か二人であった」ということです。

 同様のことは、明治二十二年(一八八九)、姫路市近郊の農村で開業医の子として生まれた哲学者・和辻哲郎の『自叙伝の試み』(中公文庫 一九九二年)にも次のように述べられています。

   

 高等小学校で一緒になった少年たちは、大体においてわたくしと同じような境遇にあったと思う。(中略)町や村で幾分か裕福な家の子であったということも、また職業的には神社、寺、医者などの子が含まれていたということも、認めなくてはなるまい。(中略)とにかく一般の農民とは、いくらか異なる階層に属する家の子であった。

 

  満二十歳の男子を対象にした徴兵検査に合わせて、「壮丁(そうてい)教育程度調査」というものが実施されていました。明治四十三年(一九一○)実施のデータでは、明治二十三年(一八九○)に生まれ、明治三十年代中頃に高等小学校を卒業した男子の比率は20.8%と、全体の五分の一程度に過ぎませんでした。これが、中学校卒業となると、その十分の一の2.3%というきわめて低い数値が残っています。

 明治三十年代は中学校の急増期でした。上記の中学卒業者の比率も、十年前の1.1%に比べると倍増はしていますが、依然として高等小学校と中学校との間には、容易には埋められない深い溝がありました。
  こうして、学力優秀で強い向学心をもちながらも、経済的な事情や家庭状況などから、中学校進学がかなわない少年が多数生まれたのでした。

 年配の人たちには、子どもの頃に白黒映画で観て涙した山本有三路傍の石』の吾一少年の姿がすぐに浮かんでくるのではないでしょうか。中学に進学を希望しながら、父親の理解が得られなかった吾一少年は、呉服屋の丁稚(でっち)奉公に出されてしまいますが、後に恩師の援助で夜学に通うことになっています。

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(昭和39年公開の東映映画「路傍の石」のポスター)

 では、そういう「中学校に行けなかった若者たち」が勉強を続けるには、どんな選択肢があったのでしょうか。

  その一つは師範学校でした。一定期間の奉職義務がある代わりに、学費が免除されるだけではなく、衣食住にかかる費用も公費丸抱えでした。
 『坊っちゃん』の中でも、「なんだ、地方税の癖に」という有名な文句がありますが、エリート予備軍と言ってもよい当時の中学生からは、露骨に蔑(さげす)まれる存在として描かれています。

 しかし、「田園貧家の秀才」を集めた学校として、歴史的に毀誉褒貶(きよほうへん)はあるとしても、勉強を続けたい若者の要求を受け入れてくれる学校ではありました。

 また、少数ではありますが、各省が職員養成のために設置した学校もありました。

    玉川大学創始者小原國芳(明治二十~昭和五十二年:一八八七~一九七七)は十三歳で逓信省(ていしんしょう)の通信技術養成所に入所しましたが、後に鹿児島県師範学校から広島高等師範学校を卒業。一度教職に就いた後、二十九歳で京都帝国大学文学部入学という珍しい経歴の持ち主でした。

 今では死語になってしまいましたが、苦学生の道を歩む若者も多くありました。東京を初めとする大都市に出て、新聞配達などの仕事をしながら、夜学に通うといったパターンが多かったようです。意志の堅固なはずの苦学生も病気、挫折、堕落などという言葉が付いて回るぐらいに、その初志貫徹はきわめて難しかったと言われています。

 以上は学校に行けた人たちですが、学校に行けない人たちの勉強の方法として通信教育がありました。
 中学校の課程を独学で終えようとする若者向けに、中学講義録を出す会社が多数設立されました。中でも明治三十五年(一九○二)に発足した大日本国民中学会が最も有名な存在でした。同社の広告では、大正の初めには会員数が二十万人となっており、その頃の中学生の約十二万人を大きく上回っています。

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 明治四十年頃では、「入会金三十銭、月会費四十五銭で、講義録は月二回、三十ヶ月で中学の全課程を修了」というシステムでしたが、最大の問題は仮に修了したとしても、何らの公的資格も与えられなかった点でした。それでも、多くの若者が会員となったのはなぜでしょうか。
 このあたりの事情を教育社会学者の竹内洋氏は「クール・アウト」という言葉を使って説明しています。

 大抵(たいてい)の者が専検や高検などの資格検定試験に挫折したことに注目すれば、専検や高検を目標にした中学講義録の勉強も実際には多くの人には異なった機能を果たしたはずである。それは野心の加熱(ウオーム・アップ)の姿をとりながら実は冷却(クール・アウト)だったという極めて皮肉な過程である。
(『立志・苦学・出世』講談社現代新書 一九九一年)

  

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わが国がまだまだ発展途上であった時代ですから、公的な奨学金の制度などもちろんありませんでした。「日本育英会法」が施行されたのは、なんと太平洋戦争も末期の昭和十九年(一九四四)のことでした。
 考えてみると、無数の有為の若者が志を得ないまま人生行路を歩まざるを得なかったわけです。改めて、高度経済成長期に遭遇したありがたさを思わずにはいられません。