往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

12  その3「操行査定というもの」

 さて、「一週間の禁足」となった生徒たちは、その後の進学や就職に際して何か不利益な取り扱いを受けたのでしょうか。
 そのことを考えるには、「操行査定」というシステムに言及しておく必要があります。
 「操行・・・日頃の行い。品行。身持ち。(『大修館現代漢和辞典』)
 「査定・・・(官庁などが調べた上で、合否を判定したり、等級や評価(割当) 額を決定したりすること。」(『新明解国語辞典第六版』)
 学業成績の評価だけでなく、明治後期の中学校には「生徒の品性・行為または生徒の道徳的判断・情操・行為・習慣」を評価する「操行査定」というシステムが存在していたのでした。

 この評価システムが導入された背景には、文部大臣森有礼(もりありのり)の「人物主義」と言われる独自の教育観がありました。それは彼の発した次の訓令に見ることができます。

  凡(およ)ソ学校ニ於テハ啻(ただ)二其(その)生徒ノ学力ノミナラス兼(かね)テ人物ノ如何(いかん)ニ注目シテ学力ト人物トヲ査定シ各(おのおの)尋常優等ノニ等トシ卒業ノトキニ至リ之ヲ証明スル証書ヲ授与セシムヘシ(以下略 太字は筆者)     「文部省訓令第十一号」(明治二十年八月六日)

 人物を「尋常」と「優等」の二段階で査定し、それを証明する証書を発行するようにというものです。
 その後、この「人物証書」(後の「操行証書」)は問題視されて廃止となりましたが、「操行査定」そのものは引き続き行われました。
 明治二十年代後半からは、多くの尋常中学校で内規の整備が進み、明治三十年代半ば以降は、「操行点」も進級の条件とするというのが一般的になっていきます。

 明治四十二年の東京府立第四中学校(現在の都立戸山高等学校)「教育実況概覧」中の「第二章 操行査定」は次のようになっています。

本校生徒ノ学科試験及操行査定 五

1、本校教員ハ平素校ノ内外ヲ問ハズ生徒ノ操行ヲ査察シ毎学期末及毎学年末ニ於テ操行査定会ヲ開キテ査定シ其成績ヲ案ジテ甲・乙・丙・等外・無等ノ等級ヲ付ス 
2、生徒ノ操行ヲ査定スルニハ凡ソ左ノ綱要ニ拠ル是レ後ニ述ブベキ訓育調査簿ニ記入セル事項ナリ
甲 学校ニ於ケル調査
 一、操行(心術・行為・言語・挙動・紀律・才幹・勤怠) 

 二、褒賞
 三、責罰  

 四、参考諸件
乙 家庭ニ於ケル調査
  一、家庭ニノミ関スル件(生活ノ状態・四隣ノ状況・宗教及教訓・僕婢ノ数)
  二、生徒ニノミ関スル件(心術・行為・言語・挙動・自奉・勉学・起居時間・習癖・嗜好・運動・遊戯娯楽)
  三、生徒ト家庭其他ニ関する件(家族ニ対スル状況・朋友ニ対スル状況・新聞雑誌・家事ノ補助)
丙、其他ノ調査
3、操行査定会議ニハ教員一同集議シ校長ハ議長トナリ各組主任其生徒ニ対スル原案ヲ提出シ審議シテ其等次ヲ定ムルナリ
4、操行査定ニ於テ其等級、甲・乙・丙ノ三者ヲ合格トシ等外ノ者ハ不合格ニシテ進級スルコトヲ得ス無等ハ欠席者ニ附スルモノナリ  (太字は筆者) 

 「操行査定」は明治末にかけて、識者、教育ジャーナリズムからの様々な批判、生徒たちからの不信感等にさらされながらも、次第に強化されていきます。


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(左端が谷崎潤一郎府立一中―現在の都立日比谷高校―の一年時、https://twitter.com/aoi_skmt/status/626601291825807360


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谷崎潤一郎明治35年東京府立一中三年時の学年末成績表、左上に「操行」の評価,https://twitter.com/aoi_skmt/status/1021604013341474816

 こうした時代の背景とそれに伴う中学校教育の変化について、「神奈川県立第四中学校(現在の県立横須賀高等学校)創設前史」(http://hiramayoihi.com/senngoshi-yokosuka-highschool.htm)では次のように説明しています。

 日露戦争で大国ロシアに勝つと大国意識が高まり、世界の実情を理解しない民衆は日比谷焼打事件を起こし、国民には軽薄の風潮、怠惰と奢りの風潮が高まり、また、共産主義社会主義思想が広がり、平等思想や革命思想などが人々の心をとらえ始めていた。
 また、日露戦争の勝利によって国民の間には奢侈がはびこり、私利私欲を追う国民の荒廃した傾向に歯止めを掛けようと「戌申詔書」が横中開校の年(明治四十一年:一九○八)に発布された。 
 また、文部省からも明治三十九(一九○六)年六月九日には学生や生徒の「風紀振粛」を求めた訓令を発したが、明治四十一年九月二十九日には学生や生徒の風紀取締強化の通牒を出し、同人雑誌、観劇、読書の統制を指示した。
 このような時代背景を受け創設時には「教育勅語」「戌申詔書」の書き写しが義務づけられ、「生徒心得」には「稗史小説類ハ休業中ニテモ閲読スベカラズ、新聞雑誌及教科書以外ノ書籍ヲ閲読セントスルトキハ、予メ学校ノ許可ヲ請フベシ(第五十七条)」と書かれていた。

*戌申詔書(ぼしんしょうしょ)・・・ 明治四十一年(一九○八) に渙発された詔書。この年の干支が「戊申」にあたったのでこの名がある。日露戦争後の社会的混乱のなかにあって,華美を戒め,勤倹をすすめ,天皇制国家における国民道徳の方向を示したもの。
稗史(はいし)・・・昔、中国で稗官が民間から集めて記録した小説風の歴史書。また、正史に対して、民間の歴史書。転じて、作り物語。小説。

 小説を読んではいけないし、ラブレターなどは見つかれば退学を覚悟しなければいけない時代であったようです。
 いずれにしても、生意気盛りの生徒たちにとっては、窮屈で息の詰まりそうな学校生活が想像されてしまいますね。

 

 

第12章 参考文献 

*印 国立国会図書館デジタルコレクション

 *「全国中学校長会議要項別表」文部省普通学務局、一九○二年

牧野信一全集 第二巻』、筑摩書房、二○○二年 
斉藤利彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開ー』東京大学出版会、一九九五年
*「東京府立第四中学校教育実況概覧」一九○九年