往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

10  その3「中学校の寄宿舎」

 明治二十四年(一八九一)、中学校令の一部が改正され、尋常中学校の設置条件が緩和されるまで、「一府県一校設置」の原則があったために、生徒は各府県下の広域から集まり、交通機関が未発達な当時にあっては、遠方の生徒たちは寄宿舎に入るか、下宿をするかのいずれかを選ばざるを得ない状況がありました。
 明治三十九年(一九○六)の松山中学校を例に挙げると、在校生五九八人のうち、寄宿生は五十六人(約九%)、下宿生は八十二人(約十四%)という数字が挙がっています。(『愛媛県立松山中学校一覧』明治三十九年)
 『全国公立尋常中学校統計書』(三井原仙之助、明治三十一年)は、第七表として「寄宿生徒数」と「寄宿費月額(食費・舎費・炭油諸費)」の一覧を載せています。
 定員から見ていくと、済々黌熊本県)の五三六人は別格として、多いところで二百人程度の、少ないところで四十人程度の人員を収容する寄宿舎を有していたことが分かります。
 舎費と食費の合計額は、概ね四円から五円と言ったところで、授業料がおよそ一円程度の時代ですから、小遣いを別にして五円から六円程度の学費・生活費が必要でした。小学校教員の給料平均額が十四~五円程度の時代に、この金額は平均的な家庭にとっては、相当な負担であったろうと思われます。
 

 ここで寄宿舎での生活を回想した文章を二つ紹介してみます。

寄宿舎生活=入学早々、物珍しく又度胸を抜かれたのが寄宿舎生活であった。その堂々たる二階建三棟が校庭の西北端遙碧霊山に対して建てられ、三百余名を収容して居た。一棟を二部に分かち六部あり、各部教室に分かれ、部、室に各長があって自治的の制度である。勿論両三名の舎監は居た。当時の部長や室長の剣幕と云つたら、新入生の自分達は縮み上がるばかりであつた。(中略)
炊事は賄い婦を雇ふ=舎生自炊制度である。舎生中から選ばれた炊事委員は当時の切れ者で頑固な青年で(中略)月末実費精算して賄い料を徴収された二円内外であったと記憶している。御馳走は驚く勿れ米飯腹一杯、一日一回は頭付きの魚がついたものだが、「イナ」のまずいのには時々困らされたものだ。
(他に寄宿舎の思い出として、「非常点呼」、「夕方の運動フットボール」、「茶話会」、「遊泳」についての記事があります。) 
(『大分県立大分中学校五十周年記念誌』より、大分尋常中学校・明治二十八年入学・第12期生、朝倉毎人氏)

 

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 小野中学校の寄宿舎、『八十周年記念史誌』(一九八三)より
 
寄宿舎は学校の内部北寄りにあって、その面積は少なくとも校舎の三分の一を占めていた。そして、三分の一よりも多くの者がここに入った。それ故私の中学生活と言えば即寄宿舎生活を意味する。
 当時の授業料は一円八十銭で、食費は月五円であった。その頃の一円は値打ちがあったもので、私の社町(現在の加東市社地区)の家の近くに米の取引所があり、凡そその米価1石十二円に対し、その取引所で一円の高低が税金を納められるか納められないかを決定するというほどであり、(中略)このうち点呼はもっと回数が多かったはずで、うすぐらい廊下にずらりと並んで、番号をかけていった記憶は今でも新しい。すべてのものが運動をした。撃剣・柔道を始め、テニス・フットボール等の他に、週に一回の大掃除の後には全員そろって運動し、しばしば二里も駆け足をした。
(後略)(『兵庫県立小野高等学校八十周年記念史誌』(一九八三年)より、兵庫県立小野中学校・明治四十一年入学・第七期生の回想)

 

 次に、神戸中学校(後に神戸第一中学校、現在の兵庫県立神戸高等学校)における明治三十五年頃の寄宿生の日課と献立の例を挙げてみましょう。

・起床 6:00 ・点検(あいさつ) 6:30

・朝食 7:00
・登校 8:00 ・昼食 12:00 ・放課後(自由時間)
・門限 17:00 ・夕食 17:10 ・自習用意 18:50
・人員点呼 19:00 ・黙学 19:00~21:00
・自習終了 21:30 ・あいさつ 21:50
・消灯 22:00       ※入浴 隔日15:00~17:30

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(『神戸高校百年史』,神戸高校百年史編集委員会、一九九七年)

 献立を見ると、昼食はともかく、夕食の副菜がずいぶんと質素な印象を与えます。五時過ぎに夕食ですから、寝るまでにお腹が減って困ったのではないでしょうか。夕食以後の外出は禁止ですから。
 一方で、「一人一食 上米二合」という記述があります。いくら食べ盛りの男子とは言え、一日に六合というのには驚かされます。これは日露戦争当時の兵隊さんと同じ分量だそうです。いずれにしても、今の我々から見ると、栄養的にずいぶんと偏った食事と言う他はありませんね。
 もう一つ、寄宿舎での生活の様子を垣間見ることができるものを紹介してみましょう。

 茨城県龍ケ崎中学校(現在の茨城県龍ケ崎高等学校)の校友会雑誌(明治三十九年三月)の記事から引用しました。

発刊物 「思想界」隔月発行
閲読誌 「中学世界」「少年世界」「朝日新聞」「いはらき(ママ)新聞」
室内装飾 各自の好み可
    「各自の嗜好により或は絵画を掲げ、或は盆栽を据ゑ、思ひ思ひに楽しみ居り候」
運動   応接室にピンポン
茶話会  月二回 「舎生は必ず壇上にて何か話をなす事にきまり居り候」 
(『茨城県立竜ヶ崎第一高等学校創立百周年記念誌“星霜百年白幡台”』より。下の写真は博文館発行の「中学世界」明治三十九年一月号、山口県立図書館蔵https://library.pref.yamaguchi.lg.jp/shiryotenji/201204

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   なんと明治時代には、室内に「盆栽を据ゑ」るようなシブい趣味を持った中学生がいたのですね。 
   ちなみに、博文館発行の「中学世界」という雑誌は、明治三十一年(一八九八)九月から昭和三年(一九二八)三月まで、三十一年にわたって刊行された「教養・受験」雑誌です。

 後に旺文社から刊行され、我々の世代にとってはラジオ講座とともに懐かしく思い出される。あの蛍雪時代(けいせつじだい)と似た性格を持っていました。 

 

# 寄宿舎は校友会活動(今の部活動)の発展に大きな意味をもちました。上記の『神戸高校百年史』では、「通学に時間を要しない寄宿生が放課後の時間を使って運動に取り組み、学校全体の運動活動の中心的役割を果たした」と述べられています。