前々回の投稿で大叔父・故準一氏のことを少し書きましたが、氏の竹馬の友であり、旧制小野中学校の同級生でもある(故)藤本勇氏の経歴・戦歴などを少し詳しく書いてみたいと思います。
昭和9年(1934)3月、社尋常高等小学校(現・加東市立社小学校)卒業
昭和14年(1939)3月、兵庫県立小野中学校(現・小野高等学校)卒業
※71期生(志願者8,164・身体検査合格5,533・学科合格1,643・入校601・倍率14・卒業581・戦死 329 :57%)
この期には兵庫県内の8つの中学から19名が入学していますが、小野中からは藤本氏ただ一人でした。
『同期の桜 海兵七十一期』続(七一会,1985.5)という書物に、在学時の藤本氏の思い出を綴った文章があります。
藤本君とは四号(四号生徒=一年生)時代、一二分隊で机を並べ、飛行学生でも同期であった。立派な体格で態度は厳正活発 、真面目で真剣、率先難に当たる模範生であった。関西訛りながら歯切れの良い姓名申告が懐かしく甦る。敵空母に体当たりの特攻には鬼神も泣く壮挙、真友藤本君を称え英霊の御冥福を祈る。(鬼塚美雄)
(当該のページ、飛行帽姿の藤本氏)
昭和17年(1942)11月14日、第71期卒業(581名)
卒業後、少尉候補生として、戦艦扶桑、軽巡洋艦夕張に乗り組み、候補生教育を受ける。
昭和18年(1943)1月から霞ヶ浦航空隊において第39期飛行学生としての教育を受ける。
(71期卒業生の半数近い273名が航空畑に進んだ。うち58名が霞ヶ浦へ)
昭和18年(1943)6月、少尉任官、福岡県の築城(ついき)海軍航空隊 配属
昭和19年(1944)3月15日、中尉任官、第553航空隊*攻撃第102飛行隊に配属
(*戦闘機の搭乗員の教育を推進するため、生徒・学生・練習生への実機練習を推進した)