往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ15 特攻隊長・藤本勇氏のこと②

■特攻開始
   昭和19年(1944)10月,アメリカ軍のフィリピン反攻に対して,日本海軍は陸上基地航空兵力である第1,2航空艦隊を主力として戦った。しかし,航空母艦 (空母) 約 15隻を基幹とするアメリカ機動部隊の機動力と集中的打撃力,特に艦隊におけるレーダの進歩と警戒艦の配備,情報指揮通信組織の完備によって,陸上基地攻撃隊の戦闘機,爆撃機雷撃機の編隊は,攻撃目標 (アメリカ空母) を視認する以前にアメリカ戦闘機の優位からの攻撃を受け,なんらの戦果をあげることなく撃墜されるという状態であった。
 第1航空艦隊司令長官大西滝治郎中将は,いずれにしても生還を期待できないならば,小数機によって防空陣を突破し,体当り攻撃によって戦果を確実にすべきことを提案し,神風特別攻撃隊を編成した。 
 10月 21~25日にかけて関行男大尉を指揮官とする 22機がレイテ湾のアメリカ艦隊に突入したのが最初である。(第一神風特別攻撃隊

「海軍特攻へ至る道」より

初めは爆弾を抱えた零戦による特攻が主体であった

終戦までに約 2400機が出撃し,2520人が戦死した。戦果としては,駆逐艦以上の戦闘用艦艇約 20隻を撃沈し,約 200隻を損傷させた。このほか陸軍航空特別攻撃隊員 1388人が戦死している。(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

■第二神風特別攻撃隊 
昭和19年(1944)10月26日、第七〇一海軍航空隊において、第二神風特別攻撃隊が編成されました。
以下、「第二神風特別攻撃隊経過概要」(第七○一海軍航空隊、国立公文書館 アジア歴史資料センター)により、経過をたどってみましょう。

 

一 事前ノ戦況
第一神風特攻隊ハ敢然トシテ敵空母ニ肉弾攻撃ヲ敢行シ五機克ク空母二及巡洋艦一隻ヲ屠リ恰モ之ヲ契機トスルガ如ク各方面ニ戦果漸ク顕著ナリ
二十五日戦況ニ於テ結論的ニ之ヲ見レバ味方水上艦艇ハ概ネ損傷ヲ蒙リ敵ハ我ニ比シ数倍ノ損害アリト雖モ尚差引ニ於テ残存セル勢力比較的多ク此儘ニ推移セムカ、明日以後味方部隊引揚途上ノ空襲ニヨル損害夥シキハ想像ニ難カラズ戦勢窮迫其ノ極ニ達セリ
茲ニ於テ之ガ唯一ノ打開策トシテ艦爆ニ対シテモ体當攻撃ノ方策決定セラレ急遽編成ヲ命ゼラレタリ

※以下は平易な表現に改めたものです。
二  編制
第二神風特別攻撃隊 隊長 海軍大尉山田恭司
忠勇・義烈・純忠・誠忠・至誠・神武・神兵・天兵の8隊で編制
各隊は体当たり攻撃 3~4機(「彗星」4機、「99艦爆3機)、直掩・戦果確認2機を標準の編制とした。

99式艦上爆撃機:低速で防弾装甲も貧弱なために多大な消耗を重ね、パイロットの犠牲者は膨大な数に及んだ。その生存性の低さから「九九式棺箱(かんばこ)」「窮窮式艦爆」というあだ名も。昭和19年10月にフィリピン戦が始まると、10月27日に実施された第二神風特別攻撃隊を皮切りに、多くの九九艦爆が特攻に使用された。また沖縄戦の特攻でも艦爆専修の練習航空隊から選抜された隊で数十機単位の九九艦爆が使われている。Wikipedia

艦上爆撃機「彗星」 99式艦爆の後継機で最大速度552キロメートルを誇った  

三 各隊の作戦経過
10月27日 忠勇隊・義烈隊 (内容省略)
同上 純忠隊・誠忠隊  (内容省略)
10月29日 至誠隊・神武隊・神兵隊
11月1日 天兵隊

 

神武隊の隊員たち

神兵隊  (原文)
十月二十九日神武隊ト共ニ一五○○「ニコルス」海岸滑走路発進 一六四五「レガスピー」三七度九○浬ニ於テグラマン戦闘機四機ト交戦 単機ニ分離一番機(藤本機)一六五八空母二突入ノ電ヲ発セルニ鑑ミ空母二突入セルモノト認ム
二番機(加藤機)一六五○巡洋艦三隻ヲ発見セシモ空母ヲ見ズ視界不良ナリシニ加ヘグラマン戦闘機ノ攻撃ヲ受ケ捜索意ノ如クナラズ 「レガスピー」着
十一月一日再攻撃ヲ突入ス
三番機(相田機)単機捜索セルモ敵ヲ見ズ 「リパ」帰着(相田二飛曹機上戦死)
十一月一日再度攻撃
攻撃隊
中尉 藤本 勇(隊長・偵察) 上飛曹 伊藤立政(操縦)
飛長 塚本貞雄(操縦) 二飛曹 加藤荘一(偵察)
飛長 正木 廣(操縦) 二飛曹 相田展生(偵察)
直掩隊
中尉 高橋 進  一飛曹 板倉正一  一飛曹 金丸

※下線は筆者

なお、10月29日の戦果は以下のようでした。(「神風特別攻撃隊戦果一覧表」より)

 

最後に、『社町史』にも掲載されていますので挙げておきたいと思います。

山国出身の藤本勇は小野中学校卒業後、江田島海軍兵学校に入学し、昭和一七年一一月に卒業した。日本海軍がフィリピンで特攻攻撃を開始したのは一九年一〇月二五日であったが、彼はその四日後の二九日、第2航空隊所属の神兵隊(3機、6人)の隊長として、神武隊(同)とともに、一五時にマニラ近郊のニコルスフィールド基地を発進した。その後。敵グラマン戦闘機4機と交戦したため、編隊は単機に分離、神武隊を含む他の5機は、空中戦で被弾して消息不明になったり、エンジンの呼称で不時着したり、敵艦を発見できずに帰投するなど、いずれも目的を果たせなかった。藤本中尉搭乗の一番機は、一六時五八分に「われ空母に突入せんとす」との発進を最後に消息を断った。享年二三歳、「少佐」*が追贈された。(藤本家過去帳、「海軍航空隊戦闘詳報」

二階級特進で勲五等功三級に叙せられました。戒名:顕功院忠淳義勇大居士

社町史 第2巻本編2 近代篇・第3章近代社の生活」)

公民館の「殉国英霊芳名録」
作成された藤本義秀氏は勇氏の甥に当たる方でした。