往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム5 「同盟休校(ストライキ)」

 西洋では教師が生徒を放校にする。日本では、それと同じくらい生徒が教師を放校にする。(中略)(教師の)資質に欠けるものがあるとわかれば、いつでも革命的な運動が起きて学校から放逐される、ということがよくあるのだ。
ラフカディオ・ハーン著、池田雅之訳、新編『日本の面影』より「英語教師の日記から」、角川文庫、二○○○年 

写真は松江時代のハーン

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 明治二十三年(一八九○)八月から一年余りの間、島根県尋常中学校(現在の島根県立松江北高等学校)で英語を教えたラフカディオ・ハーン小泉八雲の言葉です。
 明治三十七年(一九○四)に、半年間にわたって日本の教育を視察したイギリス人の教育行政官W・H・シャープも、「生徒のストライキは昔から今に至るまで、日本の中学校の一つの特徴になっている。」ある英国人の見た明治後期の日本の教育』)との報告をしています。それほどに明治期の中学校における学校紛擾(ふんじよう=学校紛争)は「有名」でした。

 この学校紛擾のほとんどは、教師−生徒間の対立に起因したものでした。
 それは具体的には、校長・教員に対する排斥運動となって現れ、生徒の同盟休校(盟休、ストライキがつきものでした。

 『銭形平次捕物控』の作者で知られる野村胡堂(のむらこどう、明治十五~昭和三十八年:一八八二~一九六三)は、岩手県立盛岡中学校(現在の県立盛岡第一高等学校)在学中の明治三十四年(一九○一)に発生したストライキのことを次のように回想しています

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岩手県立盛岡中学校~バルコニーを持つ校舎は、美しい白塗りであるため白亜館と呼ばれていた。明治18年の建築~国立国会図書館HP「写真の中の明治大正」より)

 

 事の起りは、古くからいる先生たちが、保身のために手を結んで、若くて優秀な先生が、東京あたりから新任してくると、奥女中式のやり方で、いびり出してしまう。論より証拠、鈴木先生もやめた。岡本先生もいびり出されたではないか、というのである。
 (中略)年があけて三学期になった。鷹匠小路の私の下宿に二十人ほどが集まった。五年生は卒業前だから、これは渦中に入れたくない。私たち四年生と、三年生の一部とが主力になる。基本方針は三カ条だ。第一、小姑先生二十人ほどは全部引退してもらう。第二、県当局、父兄、新聞社など、強力に陳情し、説得するが、決して暴力には訴えない。第三、試験は絶対に受ける。試験をごまかすためと思われては恥である。(中略)
    さて、一足とびに結論をいうと、生徒側の一方的な大勝利であった。もっとも、生徒の中にも、幾人かはストライキ反対派があって、その代表格の田子一民君と、私は大論戦をやった記憶があるが、つるし上げも、暴力事件も行われず、当局として、処罰の理由も口実もなかったのであろう。全員が無傷で進級し、そして先生側はというと、ほとんど全部が退職か転任になり、あとには若い近代的なのが、主に東京から補充された。これほど完全な勝利は例がないだろう。
野村胡堂『胡堂百話』より「ストライキ」中公文庫、中央公論社 一九八一、写真は明治三十年頃の盛岡中学校の生徒たち。「野村胡堂・あらえびす記念館ホーページ」より,http://kodo-araebisu.jp/  

胡堂(野村長一)は後列右から二人目

 

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 まさにハーンの言う「生徒が教師を放校」にしたケースです。
 なお、この一件は、県知事の裁定により収束し、大筋において生徒側の要求が容(い)れられました。教員は、校長の休職を始めとして、二十三名のうち十九名までが、休職、転任、依願退職となったということです。
 盛岡中学校には、胡堂の二級下に石川啄木が在籍していました(四年で中退)。こんな短歌を残しています。
   ストライキ思ひ出でても/今は早や吾が血躍(お)どらず/ ひそかに淋し                                                    (『一握の砂』「煙」)

 中学校で多発したストライキに対して、文部省は明治二十三年(一八九○)以降、繰り返し訓令を発し、学校当局も厳しい処分で臨みましたが、一向に衰える様子を見せませんでした。それどころか、日露戦争終結後から明治末年にかけてピークを迎えたのでした。
  こうした学校紛擾の原因及び背景ですが、次のように整理すると分かり易くはないでしょうか。
 

○明治三十年代の学校増設・定員増 → 教師と生徒の資質低下・多様化
   → 無資格教員の増加・人事異動の激しさ  →  生徒心得等規則の整備強化
   →  教師・生徒間の人間関係の希薄化  → 両者の軋轢(あつれき)
 

 明治末年以降も大正から昭和初期にかけて、中学校の学校紛擾はなかなか根絶には至ることはありませんでした。戦前において、それがほとんど見られなくなったのは、ようやく昭和十年代に入ってのことでした。