最後に、「両者の対立意識」についても見ておきたいと思います。
残念ながら、師範学校生の意識をうかがい知ることのできるようなものは未見ですが、中学生の師範学校生に対する優越意識は、次に挙げるような回想文によく現れています。
これは、明治二十四年(一八九一)、大分県大分尋常中学校(後に大分中学校、現在の大分県立大分上野丘高等学校)八期生として入学した山口龍吉氏が寄宿舎生活を回想した文章です。
南舎は師範の寄宿舎と相対して居た関係上、能(よ)く白眼(ママ)合つては喧嘩したものだ。誰の発明した言葉か知らんが師範の生徒に対しては二言目には「何を此の地方税が」と言ったものだ。(中略)
松榮山の招魂祭には参拝した後で両校が各別に行う一斉射撃こそは唯一つの競技の機会であった。中学が先にやってうまくいくと=実際又うまくもあった=喊声(かんせい)を挙げて喜び次に師範の射撃が不揃いでもあろうものなら、手を打って喜んだものだ。ある年例の通り師範の不手際を散々罵倒した後で誰かが「ざま見よ地方税」とやったので、之には流石に謹厳聖者の如き石川(總弘)老先生まで「地方税とは」と苦笑せられたものである。
(『大分県立大分中学校創立五十年記念誌』,昭和十年)
(ふりがな・太字筆者)
どうやら、師範学校生を「地方税」と揶揄していたのは、松山だけではなかったようです。
中学校の学費
明治三十年代半ば頃の公立中学校の授業料を調べてみました。
授業料月額は、次のように一円から一円五十銭といったところでした。
兵庫県 一円(兵庫県立中学校学則、明治三十四年五月)
静岡県 一円二十銭(静岡県立中学校学則、明治三十四年三月)
長野県 一円四十銭(長野県立中学校学則、明治三十四年三月)
三重県 一円五十銭(三重県立中学校学則、明治三十八年七月)
当時は各府県とも学校数が限られており、交通機関が未発達であったために、寄宿舎に入らざるを得ない生徒の比率が高く、保護者にとっては、授業料にその費用を加えると、相当な負担になっていたものと思われます。
武石典史氏の調査によると、寄宿生が一ヶ月に要する費用は、その頃の小学校正教員平均俸給月額の六割程度にも達していたことが分かります。
以上見てきたように、中学校と師範学校の衝突は偶発的なものには見えても、複線型の教育制度の下で、それぞれの学校が持つ社会的威信、背負わされた性格、さらにはそこから生じた生徒の気風などを考えると、むしろ、起こるべくして起こったものと言ってもよいのではないでしょうか。
第6章参考文献 *国立国会図書館デジタルコレクション
*『東京府立第一中學校創立五十年史』 一九二九年
古屋野素材「教育史教材としての文学作品」明治大学教職・社会教育主事課程年報10 一九八八年
『富岡先生』 :「牛肉と馬鈴薯」新潮文庫 新潮社 一九八三年
*『大分中学校創立五十周年誌』一九三五年
武石 典史『近代東京の私立中学校―上京と立身出世の社会史』 ミネルヴァ書房 二○一二年