往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

ふるさと山国(やまくに)の今昔あれこれ16 昭和14年の大干魃①

■ 昭和最大の大干ばつ

兵庫県内では、明治の初めから昭和戦前までの約70年間に10回ほど旱ばつに襲われていますが、そのうち明治16年(1883)、大正13年(1924)、そして昭和14年(1939)は記録的な「大旱ばつ」であったとされています。  (『社町史 第2巻本編2』「近代篇/第2章近代社の経済と産業/第3節近代社の災害と開発/一 近代の旱ばつ」)

当地区には、それぞれの当時の区長が書き記された記録(明治・大正ー旱魃景況記」、昭和ー旱魃覚書」)が残されています。今回は、昭和14年の大干ばつ時の村の動きを克明に記録した旱魃覚書」の内容を何回かに分けて見ていきたいと思います。

ちなみに、これを残したのは筆者の曾祖父である藤原和三郎(明治14~昭和35年・1881ー1960、農業の傍ら、戦前に町会議員と区長などを歴任)です。

後列左端 何かの団体で旅行したときの写真でしょうか(年代不明)

(「昭和十四年六月」とありますが、これは記録の開始時期です。30数年前にある郷土史家に見せてほしいと言われてお貸したことがありましたが、お名前は失念・・・)

 

この年は全国的に雨の少ない年でした。中でも西日本は未曽有の大干ばつに襲われました。
6,7月の降水量が平年の50%以下、所によっては25%以下の地方もありました。8月もさらに降水量が少なく、西日本全域で記録的な旱魃となりました。
旱ばつの被害は瀬戸内海沿岸、及び山口、鳥取、佐賀の各県で激しく、兵庫県では約29.8平方キロメートルの水田で田植えが出来なくなるなど、水稲生産は723万1991石で、過去5年に比べて約9.5%の減収となりました。
昭和時代最大の旱ばつと言われています。

(山国地区の主な溜め池)

新字体に改め、原文にはないが句読点をつけている

六月二十二日 荒樋ヲ抜ク(1)
此日各池ノ水量左二示ス
一 王子池 九合弱 但シ分水石ノ上二寸アリ
一 中新池 満水
一 奥新池 九合強 越水天ヨリ一尺下
一 谷田池 八合
一 原田新・旧 七合半 二尺三四寸下
一 中尾池 三合
一 口ノ森池 七合弱
一 奥ノ森池 八合半  越水天ヨリ二尺下
一 下り藤池 満水
   
本年ハ麦収穫時気(ママ)ヨリ好天気継続シテ、一時各池水可ナリ満水シテ居リナガラ、為大(しだい)ニ減水セリ。
六月二十二日ヨリ旱天ナガラ荒樋抜タリ。併(しか)シ幸ニシテ二十五日ヨリ雨模様トナリ、二十六七日ハ少雨ナリ。
二十八日九日両日共、朝三時四時頃ヨリ稍大量ノ夕立雨アリ、大ニ植附(2)ニ好都合ナリ。
七月五日六日ノ両日サノボリ(3)セリ。
以后又旱天トナリ、七月八日夜役員会同シテ水不足ニ付前後ノ册(策)ヲ協議セシガ、衆議一定セズ、翌日総集会ヲ開催シテ此ガ議決ニヨル事二決シ、九日午后ヨリ一般部落民ニ各池ノ水量ヲ見聞セシメ、帰テヨリ総集会ヲ開キ、草取リノ日ヲ二十三日迄限リト定メ、又各掛(4)毎ニ二名宛ノ加番ト二名宛ノ補充ヲ一回投票二ヨリ定メ、十日ヨリ当分ノ間ハ一人デ交代ニテ上下ナクヨク平等ニ用水ノ注入ニ尽力ヲ願フ事二決ス。
又、口ノ森池及原田池ノ不足ニ付之ガ補充ヲ談ジ一先(ひとまず)谷田池ヲ四日間抜テ原田池ヘ注入ナス事トシ、十日ノ朝ヨリ十四日ノ朝マデ抜キ此減水一尺五寸ナリ。

参考
下り藤ノ如キハ、六月二十二日荒樋抜テヨリ植付モ終リ七月九日ノ総集会ノ時迄十七日間ニ僅ニ七寸位ノ減水ナリ。之ヲ以テ考ヘルトキハ、植付ニ好雨モアリナガラ、他ノ係リハ水ノ使用、粗略ナラズヤ。(以下略)

(注)

1 現在は6月5日が標準。当時は二毛作で麦の刈り取りがあったので遅かった。

2 田植えのこと

3 田植え後の慰労のこと。一切の農作業を休んで寛ぐ期間

4 各溜め池ごとの係

王子が池 当地区最大の溜め池(ブログ「ふるさと加東の歴史再発見」より)



以下は日を追って出来事などを略記

(七月)
十四日 朝三時頃から部落婦人会一同、熊野神社雨乞い祈願*。原田池では大火を焚く。
  * 旱魃の時には次のごとき事をなして、神に豪雨を祈る。
   雨乞踊り、氏神万度詣、神仏に祈願、山上にて大火を焚く等。

十五日 夜、評議員・什長会(1) 原田池、口ノ森池減水の件を協議
十六日 宝池(谷田池)を抜き原田池へ注入 午後総集会を開く。
(決定事項)

旱天が益々激しいために、前が谷の東畑の村田及び各戸の水田への灌漑を一時停止することを協議したが、議論百出し、二十三日(土用三郎の日(2))まで給水し、降雨ないときは断水と決定した。
但し、各池係は「競争ノ精神ヲを以テ」一日でも長く灌漑できるよう努力することとした。また、田の草取りは二十三日迄としたが下り藤池は水量が豊富なため、二十八日までとした。応召兵の家(3)も同様とした。
十八日 夜 総集会
十六日の決定事項について、原田池、口ノ森池の係が「即時給水中止」を断行すると決定したので、村民一同に報告し承認を求めた。
王子が池は減水甚だしく、「二ノ棚ノ一尺位」まで落ち込んだので、同池の係は中新池の水を即時引き込むべきだと主張。それに対して原田池、口ノ森池の係は今しばらく辛抱せよと言った。結局、二十一日に宝池(谷田池)の水を王子が池に引き込むことになった。
同日、奥谷池が本日「落切シ」(4)と報告があった。 

二十一日 昼に五分間ほど夕立があった。
二十二日 雨休み
二十三日 虫送り(5)

 

(注)
1 現在の組長のことか。
2 夏の土用の三日目。その日の天気でその年の豊凶を占った。
3 出征兵士のいる家庭
4 すべて落水した。
5  農村において、農作物につく害虫を駆除・駆逐し、その年の豊作を祈願する呪術的行事。

 

※半月余りの間に3回も総集会を招集するなど、いよいよ事態が切迫し、会議でも議論がなかなかまとまらない様子が文面からうかがえます。

そんな中、婦人会の「雨乞い祈願」が行われています。やはり神主さんを招いて祈願してもらったのでしょうか。「大火を焚く」というのは、天を焦がして雨を降らすという古来からの雨乞いの方法だったそうです。