往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

12  その2「禁足とは」(つづき)

 「中学校令施行規則」(文部省令第三号)が施行された明治三十四年(一九○一)の生徒懲戒に関する文部省の調査では、懲戒を「譴責(けんせき)、謹慎、停学、放校、戒飭(かいちょく)其他」の五つに類別しています。
 次の表は、明治三十四年度の懲戒生徒数を示したものです。    

f:id:sf63fs:20190227105834j:plain

(文部省普通学務局、明治三十五年「全国中学校長会議要項別表」より)

 何らかの処分を受けていた生徒数は9,188名で、この年の中学校在籍生徒数88,391名の約9%という高い数値になっています。極めて厳格な「生徒管理」がなされていたことがよくうかがえます。 

 そんな厳しい中学校生活を作品中に描いた作家がいます。明治四十二年(一九○九)に神奈川県立小田原中学校(現在の県立小田原高等学校)に入学した牧野信一(明治二十九年~昭和十一年:一八九六~一九三六)です。

 

f:id:sf63fs:20190227112123j:plain

(早稲田大学時代、「続・西部劇通信」より
   https://www.connec.co.jp/makinos/news/konda.html)

 

 それは県立中学で、非常に規律が厳しかった。そば屋或いは洋食屋等の飲食店に立入ったことが見つかれば五日間の停学、袴(はかま)を着けないで外出すると一日の謹慎、頭髪を三分刈にしたりもみあげを短く切れば体操教員から拳固で一つ擲(なぐ)られ、自転車に乗ると始末書を徴発され、新しい文学書を翻(ひもと)けば修身点(操行点とも言われた)を引かれ、艶書(ラブレター)は退学、遊廓散歩は無期停学、洋服で下駄をはくとこれはまた擲られ、流行歌を吟ずると保証人が呼び出され、ハモニカ、バイオリン等を弾奏すると、艶書を書きはしないかという嫌疑を受け、劇場出入は三日間の停学、運動シャツにマークをつけると運動禁止、好天気の時に足駄をはくと、雨の日に跣足(はだし)の登校を命ぜられ、夜間外出は夏期に限り規定の服装の下に海岸散歩七時まで許可、但し祭礼の場合は神楽(かぐら)見物に限り九時まで許可――以上は厳則の一端に過ぎない。 
 『牧野信一全集 第二巻』、筑摩書房、二○○二
太字、ふりがな、(  )内は筆者)による。

 これはこの作者独特の、いささかデフォルメされた表現なのではと思われる方があるかも知れません。
 しかし、明治末年頃の富山県立富山中学校(現在の県立県立富山高等学校)における実態を紹介した斉藤利彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開ー』(東京大学出版会、一九九五年、第二部「中学校における「生徒管理」)には同様の実例が挙げられており、決して大げさに書かれたものでないことがわかります。

 ここからは余談になりますが、先に挙げた『全国公立尋常中学校統計書』(明治三十一年)を見ていると、「生徒喫煙飲酒等ノ禁制ノ有無其他範囲」という欄があります。もちろん、ほとんど全ての学校で、「校内外を問わず禁止」となっていますが、中に次のような学校もあり、意外の感を禁じ得ません。

●校内ニ於イテ一定ノ箇所ヲ定メ喫煙ヲ許ス(三重県尋常中学校)
●喫煙ハ通学生控所ニ寄宿生ハ寄宿生ハ喫煙室ニ於イテス(福島県第一尋常中学校)
●酒楼ニ上リ演劇ヲ見、煙草ヲ喫スルコトハ一般ニ厳禁ス但シ十七年以上ニシテ痼疾トナリタル者ニハ特ニ禁煙ヲ免ズルコトアリ(山口県尋常中学校)など

  実はこの調査は、未成年者喫煙禁止法(明治三十三年法律第三十三号)の施行される二年前に行われたものだったのです。
 法律施行後は、文部省も訓令(「明治三十三年文部省訓令第五号」)を発して、「成年以下ナルト以上ナルト学校ノ内外トヲ問ハズ」喫煙禁止の旨を通知しています。

    法律が制定された背景には、中学生を含む青少年の喫煙が社会問題となっていたことがありました。

f:id:sf63fs:20190228165259j:plain

少年雑誌『少年世界』(博文館発行,明治28<1895>年創刊)に明治29(1896)年に掲載された,「煙草征伐」と題する記事の挿絵。左側は,煙草をふかしながら往来を歩く,「堕落」のイメージを体現した「書生」である。右側でそれを指さし眉をひそめている,制服制帽の「学校生徒」。

林雅代「近代日本の『青少年』観に関する一考察― 「学校生徒」の喫煙問題の生成・展開過程を中心に―」教育社会学研究56、1995)