往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

「サクラサク」 合格電報の話から・・・

例年なら、桜の開花状況が毎日のニュースとともに聞かれるのに、今年は寒暖の差が大きいのと、雨が多いせいか、近くの桜のつぼみも堅く、一向に咲く気配がありません。

これまでに、電報というものをもらったのは、おそらく大学入試(合格発表)、先月の父の葬儀、あとひょっとして結婚式もあったかも知れません。(自信がありません)

 

50年前の昭和49年(1974)の3月3日、4日と入試がありました。共通一次の前の1期校・2期校の時代ですから、一発勝負。
2日目の日程が終わり、正門から帰ろうとすると、地元の広島英数学館が前日の数学の模範解答を配っていました。確認してガッカリ。これではよくて3割の出来かなというところでした。数学だけではありませんが、割と正統派の問題が多い広大でしたが、元々数学は弱い上に苦手な分野(ベクトルだったかな)とあって、散々でした。

市内東千田町にあった頃の本部キャンパス

他の英国社(日本史)は手応えがあったものの、数学がコレでは・・・と思いながらも、2期校に向けての準備をする気にもなれず、発表の16日を待ちました。
旺文社模試では、A判定が多かったのでちょっと楽観視してたのかも知れません。

 

さて、発表の16日。当日の午前、バイクに乗った郵便配達のオジさんが、ニコッと笑って電報を手渡してくれたときの嬉しさは半世紀経っても覚えています。
たしかサクラサク ヒロキョウ」とありました。ネットも何もない時代、学生が(たぶん)サークル単位で合格電報をアルバイトとして受け付けていたのだと思います。
あと、大阪の夕刊紙には氏名が掲載されていたと聞いたこともありました。たしか、地元紙には地元国立大学合格者氏名が掲載されていた、そんな時代でした。

 

山陽本線の特急しおじ 昭和50年新幹線博多開業で廃止)

 

合格が決まってすぐに広島へ行き(山陽線特急しおじ だったか?片道姫路から3時間あまり)、下宿の手続きをすればよかったのですが、父の仕事の都合で遅くなり、結局見つかったのは東隣の府中町(とは言っても橋を渡れば市内)にあった、元工員さん向けのバラック立てのような下宿でした。
家主さんの田村巌さんのお宅の敷地内に建っており、1階2階とも3人ずつ広大生が入っていました。初めは2階の西日の当たる部屋で、二年先輩が卒業後に南向きの少し広い部屋に移りました。

朝夕の2食(日曜は除き)風呂(秋冬は隔日。田村さん夫婦・長男・長女さんのー山木さんー一家5人にプラス下宿生6人が入る!!なんと計14人)付きで、当初は17500円でした。
当時、市内では間借りが多く、その場合1畳あたり千円というのが相場でした。
大学からはおそらく5キロ以上も離れており、普段は自転車。雨の日は、バスと電車を乗り継いで通うのですが、何よりも2食付きというのが親にとっては安心だったみたいでした。

 

書けば、いくらでも材料はありますが、いずれまたということで・・・・。

 

先日、この年の入学生(当時広大では、関西のように○回生と言わずに、入学年度で49生とか48とか呼んでいました)の同窓会の案内はがきが届き、7ヶ月後を楽しみにしています!たしか31名でしたが、さて何人集まることでしょうか!?