「紛擾(ふんじょう)」とは聞き慣れない言葉ですが、辞書には「関係がもつれる。乱れもめる。ごたごた。」(『大修館現代漢和辞典』)とあります。
旧制中学校の沿革史を見ていくと、中には校長の交代が頻繁な学校があります。沿革史という性質上、その理由が記述されることはありませんが、多くは学校紛擾が背景にありました。
学校紛擾は、明治二十年代以降、全国的に続発した教職員と学生・生徒・児童の対立を中心とする騒動です。当時、ジャーナリズムは学校紛擾を「不祥事」、「明治教育の汚点」、「学校騒動病」などと報道しました。文部省も極めて深刻な問題として捉え、その防止に向けて、相次いで訓令を発しました。
寺崎昌男氏によると、明治二十年から明治末までの二十五年間に、雑誌『教育時論』が報道した学校紛擾の発生件数は累計二百五十五件にものぼったということです。そして、その多くは日清戦争、日露戦争のいわゆる戦間期と明治末期(四十年代はじめ)の二つの時期に集中しています。
中でも中学校については、明治三十八年(一九○五)から明治四十五年(一九一二)までの八年間に、年平均十四.五件の発生が報じられています。同時期の他の校種を見ると、文部省直轄学校一.八件、高等学校○.九件、高等女学校○.六件、師範学校二.四件などとなっており、中学校における発生件数の多さは他とは比較にならないほどでした。(寺崎昌男「明治学校史の一断面」ー学校紛擾をめぐってー、『日本の教育史学 教育史学会紀要』日本の教育史学第十四集:教育史学会紀要、一九七一年)
日清・日露の戦間期にあたる明治三十一年の学校紛擾について、『中学教育史稿』(桜井役、受験研究社増進堂、一九四二年)は次のように論じています。
明治三十一年に至りては
福井 教員生徒間の紛擾より生徒の休業
山梨 生徒の懲罰に同情し同級生の共同休業 富山 上級生の校長排斥
岡山 教員生徒間の紛擾 青森 校長排斥を決議して休業
奈良 四五年生の同盟休校 鹿児島 寄宿舎生徒の同盟退舎
愛媛 教員生徒間の紛擾
等の事件頻出し、その他、救世軍に対する暴行、四十余名の万引き、中学生の蓄妾(ちくしょう)、宿料に窮したる生徒の女将絞殺未遂、同性及び異性に対する醜行(しゅうこう)等、中学生風紀頽廃の事実は中国、北陸、四国等より伝へられた。而(しか)して教員に関する醜事実も少なからず、更に他の中等諸学校の紛擾、教員及生徒の非行を加ふれば,殆ど枚挙に遑(いとま)なきものがあった。
こうした状況を受けて、その当時文部省書記官兼参事官視学官の地位にあった寺田勇吉は、学校紛擾の対策ハンドブック的性格を持つ『学校改良論』(東京南江堂、明治三十一年)を著しました。
寺田は同書で「学校紛擾の原因」と題して、六つの項目を挙げています。
1 学校長及教員ノ適良ナラザルコト
2 学校長及教員ノ更迭(こうてつ)頻繁ナルコト
3 監督官庁ノ処分宜(よろ)シキヲ得ザルモノアルコト
4 規則ノ厳密ニ過グルモノアルコト
5 規則ノ施行緩慢ニ流ルルコト
6 寄宿舎生活ノ不愉快ナルコト
原因(問題点)を整理してみますと、次のようになるでしょうか。
ア 教員の資質
イ 当局の人事、指導のあり方
ウ 生徒指導の規則と指導のあり方
エ 寄宿舎の不備
次節では、「バッタ事件」及び「吶喊事件」発生の場となった、上記6の「寄宿舎」を取り上げ、そこでの生活実態も紹介してみたいと思います。
# 明治の中学校というのは、生徒・教員ともエリートというイメージがありましたが、『中学教育史稿』の事例を見ると、ずいぶんとひどく悪質なことをやっていますね。