明治の30年代から中学校の増設が進み、明治34年(1901)に全国の中学校卒業者数9,444人であったものが、10年後の明治44年(1911)には、17,561人と1.86倍に増加しました。戦前期最大の増加率であったと言われています。
それに対する受け皿、つまり上級学校の入学定員は次のように、なかなか追いつく状況ではありませんでした。
■高等学校入学定員
明治34年(1901) 1,702
明治44年(1911) 2,199(1.29倍)
■官立専門学校入学定員明治36年(1903) 2,812
明治44年(1911) 3,801(1.35倍)
(第五高等学校:現在の熊本大学、https://www.eng.kumamoto-u.ac.jp/faculty/history/history1/)
一方、入学志願者は、高等学校では約四千名も増えており、志願倍率は約3倍から約4.5倍と高くなっています。高等学校の増設が叫ばれましたが、財政難を理由に実現しませんでした。
(明治43年頃の第一高等学校生徒、前列中央は菊池寛、https://blogs.yahoo.co.jp/julywind727/28190528.html)
官立の専門学校の場合も志願倍率は明治36年(1903)の2.65倍から明治44年(1911)の3.55倍へと、結構高い伸びを率を示しています。
(明治39年創設の仙台高等工業学校:現在の東北大学工学部、http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/exhibit/gen/postcard1.html)
もちろん、この他にも私立の専門学校が多数存在しましたが、期待されるほどの受け皿確保にはつながりませんでした。
高等師範学校や軍の学校(海軍兵学校、陸軍士官学校)なども定員自体がもともと少ないために、全体への影響はほとんどありませんでした。
年々高まる中学校卒業者の進学希望に見合うだけの高等教育機関の定員増加がないため、必然的に進学競争は激化していきました。
# 菊池寛(作家・明治21年~昭和23年:1888~1948)の学校遍歴はなかなかのものです。
東京高師(除籍)→明治大学法科(3ヶ月)→早稲田大学(籍のみ)→第一高等学校(卒業直前に退学)→京都帝国大学文学部