往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

「忘れ得ぬ人」

ここ2ヶ月ほど、昼寝癖をやめたら、(当たり前ですが)寝付きはよくなりました。
ところが、最近、すぐに入眠できないときに、以前の落語にかわりにYouTubeで朗読をいくつか聴いている中に、国木田独歩二老人」(朗読・寺島尚正  https://www.youtube.com/watch?v=Ub7N_PmUSKE)というのがあり、青空文庫で本文を確認しているうちに、眠気はどこへやら・・・。

*国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市山口県育ち。

 

一時、独歩*の作品をいくつか続けて読んでいた時期がありました。
印象に残るのは、 「源叔父」(1897年・明治30)、「武蔵野」(1898・明治31年)、「忘れ得ぬ人々」(前に同じ)あたりですが、今回はこの「忘れ得ぬ人々」**から思い出した学生時代のどこの誰とも分からぬ男性についての思い出を綴りたいと思います。

**  『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価された国木田独歩の1898年(明治31)4月《国民之友》に発表された短編小説。
溝口(現,川崎市)の旅館亀屋で、無名の文士・大津弁二郎がたまたま泊まりあわせた画家の卵・秋山松之助に物語る形式となっている。
大津には親兄弟や先生と違って忘れても義理を欠くわけでもないのに、妙に忘れられない何人かの人々がいる。
一人目は、十九歳の春、瀬戸内海を渡る汽船の甲板から見た寂しげな小島、そこで小さな磯を漁る漁夫と思しき男
二人は、二十二、三歳の正月、九州阿蘇山の麓で見た馬子。
三人目は、夏の初め、四国の三津が浜で見た琵琶僧。
「忘れえぬ人は必ずしも忘れて叶うまじき人にあらず」の句から始まる原稿、二年後に書き加えた人物は・・・
  (朗読: https://www.youtube.com/watch?v=8k2GuuSrkRs

広大在学時(昭和49~53・1974~1978)、所属は教育学部教育学科(今は改変されて。第ナントカ類とかになっている)でしたが、教員免許所得のために、文学部の国語国文科、中国文学科、中国哲学科などの講義を聴いていました。

市内東千田町にあった広島大学本部キャンパス

たぶん、国文学近代文学だったか?それだと有名な磯貝英夫先生・・・?)の授業でしたが、教室に工員風の菜っ葉服姿の聴講生の男性が一人いました。足下はズック靴で坊主頭絵に黒めがね。痩せて小柄な人だったと記憶しています。

当時の文学部講義棟の木造校舎(ブログ「移転前の広島大学」)

年齢は幾つぐらいだったのでしょうか?意外と若かったのかも知れません。
地味な服装の多い広大の男子学生の中でも、ひときわ目立つほど地味でした。
毎回、真面目に授業には出られていたように思います。

ある時、広島駅から宇品方面に向かうバスに乗っていて、何気なく車窓から外を見ていて、歩道を小走りに大学方面に向かっているこの聴講生の男性を見つけました。

そのとき、その人はパンの耳の入ったビニール袋提げていたのです。
工員風の菜っ葉服だけでも十分に印象に残るのですが、そこへパンの耳ですからますます「いったい、どんな境遇の人なのかな?」と思ってしまいました。

定年後に大学の聴講生となって、自分の興味のある分野の勉強をしようとする高齢者の話は聞いたことがありますが、食費や衣服などの経費を切り詰めても聴講生になって勉強しようとは、いったいどういう理由からだったのでしょうか?

エピソードとしては、たったそれだけのことなのですが、国木田独歩」→「忘れ得ぬ人」→「菜っ葉服の聴講生」という連想が自然と働いてしまいました。

なにかのきっかけで、50年近く経っても、ほんの一瞬の記憶がよみがえる、考えてみると不思議なことではないでしょうか。

 

そういえば、この文学部の木造校舎には廊下に「下駄履き禁止」という立て札がありました。昭和50年頃のこの時代に、さすがにもう下駄履きは見られませんでしたが、

時代を感じさせますね。

たしか夏場は裸足にサンダル履きだったかな((^_^))