往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

奇習「彼岸乞食」のこと

彼岸乞食 (社町山国部落の奇習)
村内十三歳以下の男子十数人一組となり、(春の彼岸)中日の日未明より各方面に立ち分かれ、袋或いは風呂敷等を携えて各戸を叩き「彼岸々々」と呼び歩き、金銭、米或いは野菜乾物等を強制的に貰い受け、最後に一ヶ所或いは二ヶ所に集まり、米は飯に、金は加役を購う料として、加役飯を焚き、十四歳の男子(去年まで彼岸乞食に廻りたる者)を招待し相共に会食す。尚余分ある時は売り払い十四歳の者が分配する慣例なりと。(以上、原文の旧字体、旧仮名使いを新字・新仮名遣いに改めた)

その起源ははっきりしないが、伝説によると昔藤田部落に大きな池があったが、その池には大蛇が生息しており、しばしば人や家畜に害をなした。村人の一人が「このまま放置すれば、きっと祟りをなすであろう」と言った。
恐れをなした村人たちは、毎年春秋の彼岸に追善供養として米を集めて仏事を催した。
ところが、次第に仏事よりも飲めや歌えの会食が中心となるような弊害を生じたために、古老たちはそれを嘆き、改めようとしたが、すぐには改まらなかった。
近年では米を大声を出して強制的に貰い受けるのではなく、礼儀正しく受け取るようになった。また、この飯を食べると疫病厄難を免れると言うことで、良家の子弟はそれを貰い受けて食べるという。(原文を意訳した)
   加東郡教育会 編『加東郡誌』(加東郡教育会,大正12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/978702)第八編風俗

小学生の頃、我が村には上記引用文のような風習がありました。

夜明け前から、村内(大きな村なので、我々の通学班の範囲で40軒近くか?)を手分けして廻り、米や野菜などを貰い受け、宿になる上級生の家でかやくご飯(肉は鶏だったような)をいただく。昼間は神社で遊んだり、自転車でちょっと遠出したりして昼過ぎに解散だったか・・・・。

ほんとに珍しい風習らしく、普通にインターネットで検索したぐらいでは出てきませんが、国立国会図書館の検索では、以下の書籍などで取り上げられています。

中山太郎 著『日本若者史』,日文社,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9542843 
 中山太郎 編『日本民俗学辞典』,昭和書房,昭和11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1453383 (参照 2024-03-20)

 

筆者の中山氏は「関東から東北にみられる鳥小屋の風習が変形したものか」と簡単に触れているぐらいです。

 

これと関連するような彼岸の風習としては、私たちの地方では「日迎え日送り」というのもあったということで、これはたぶん老人と女子の行事ではなかったかと思います。

彼岸会の民俗的基盤に注目する必要があろう。京都府宮津市付近や兵庫県美囊(みのう)郡・加東郡などには,彼岸の間に〈日の伴〉とか〈日迎え日送り〉といって,朝は東方の,日中は南方の,夕方は西方の社寺や堂に参る行事がのこっており,原始的な太陽崇拝のなごりと考えられている。日

迎え日送り(読み)ひむかえひおくり 世界大百科事典(旧版)

 

 

民俗学研究所 編『年中行事図説』,岩崎書店,1955. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9546230 (参照 2024-03-20))

この「彼岸乞食」もいつまで続いたのか不明です。私は近所の2年上の人の家といううっすらとした記憶はありますが、他に色々思い出されてこないので、自分たちが6年生の頃にはもうなかったのかもしれません。

それにしても「乞食」とはいやなネーミングですね!

小学校でも恥ずかしくて話題に出来なかったのではないでしょうか。

今度同年配の村人に出会ったときにでも、いつまで存在したのか聞いてみようと思います。