往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

13   その3 「明治の英語教育批判」

    帝国大学文科大学長(現在の東大文学部長に当たる)を経て同総長、貴族院議員、第三次伊藤博文内閣の文部大臣などを務めた外山正一(とやままさかず、嘉永元年~明治三十三年・一八四八~一九○○)は自著『英語教授法』(大日本図書、明治三十年:一八九七)において、その頃の中学校における英語授業を手厳しく批判しています。

   

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  各学校二於ケル英語教授法ノー大欠点ハ、訳読ハ訳読、音読ハ音読、会話ハ会話、文法ハ文法ト、其々別々ノ課目トシテ課スルガコトナリ。往々ハ、其々ノ課目ノ受持教員ノ別人ナル場合モアリ。而(しか)シテ、其ノ授業法ハ如何(いか)ニト云フニ、訳読ノ授業二於テハ、発音音読等二ハ少シモ構ハズ、生徒ヲシテ唯々(ただただ)訳読セシメ、若(も)シクハ教師自ラ唯々訳読スルニ止マリ。音読ノ授業二於テハ、文章ノ意味ヲ生徒ガ了解スルト否(いな)トニハ少シモ構(かま)ハズ、唯々音読セシメ、文法ノ授業二於テハ、自身ニハ少シモ英文ヲ綴(つづ)リ得ヌ如キ教師ガ、文法ノ規則ヲ日本語ニテ、口授シテ生徒二書キ取ラセテ其レデ英語ノ文法ヲ授ケタリト做(みな)シ。会話ト云ヘバ上下(=裃)ヲ着ケタル如クニ改マリテ、会話ノ稽古二取リ掛ラントスルガ如キ、実ニ言語同断ノ授業法ノ行ハルル場合少ナカラズ。(中略)訳読、音読、文法、会話等ヲ、別々ノ課業トシテ教授スルハ今日ノ通弊ナレドモ、決シテ斯(か)ク区別シテ教フベキニアラズ。(中略) 
 生徒ノ学力二比シテ、不相応二六ケ敷(むつかしき)教科書ヲ使用シ、生徒ノ学力二比シテ不相応二多量ノ日課ヲ授ケ生徒二充分分ラザルニモ構ハズ、生徒ノ脳裏二印象ノ尚ホ不充分ナルニモ構ハズ、恰(あた)カモ大人ガ小児ノ手ヲ挽(ひ)キナガラ、驀地二(ばくち=一直線に)馳(は)セ行ク如クニ、ザット訳読ヲ爲(な)シテ、前へ前ヘト計リ進ミ行クノ弊風ハ何(いず)レノ学校ニモ多少行ハルルガ如(ごと)シ。
(第一章 外国読本及是レニ類似ノ読本 句読点を改めた ふりがな・傍線・太字は筆者)

  

    内容を箇条書きにすると次のようになります。

① 訳読、音読、文法、会話が別の科目のように教えられている。

② 訳読の授業では、発音にかまわず、ひたすら生徒に訳をさせている。
③ 文法の授業では、日本語で説明し、それを書き取らせて済ませている。
④ 生徒の学力に比して難しい教科書を使用している。
⑤ 生徒の学力に不相応なほど日課を多く課している。

    要約をしながら思ったのですが、こうした傾向は何も明治時代に限ったことではなくて、七十年代の前半に高校時代を送った筆者はもちろんですが、それ以後の世代の人たちの中にも結構思い当たる人がいるのではないでしょうか。 

 英語の先生には怒られそうですが、似たようなことは、昭和から平成にかけてもあったように思われます。

   

    漱石も英語教師の資質や養成法に一家言を持っていました。それがよく現れたのが「語学養成法」(明治四十四年、雑誌『学生』一・二月号に掲載、岩波『漱石全集』第十六巻所収)でした。

  

教師の試験

いま一つは従来の教師をいかにして改良するかということである。事実行なわれがたいことであるかもしれぬが、わたしは全国の中学の英語教師の試験を、ときどき文部省でしてやったらよかろうと思う。教師の精勤その他は校長にもわかるが、教師たちが平生どれだけ自己の修養に努めているかは、こんな方法でも講じなければわかりようがない。むろんその試験は随意でいい。申し出るものにだけに施してもよい。とにかく、二年に一度くらいずっ成績を取っておいて、これを校長の報告と比較し、いろいろ考え合わして、昇級増俸の道を講じてやる。そうしなければ、中学の教師をして勉強しようなどという気は、まるでなくならしてしまう。生徒も不幸である。本人も気の毒である。(後略)

    ここに見られる漱石の意見は、当時としてはなかなか斬新なものでした。
 教師の試験、能力給などは、その後も何度か提案はなされましたが、今に至るまで実現に至っていない改革案です。
 それほどに、漱石が抱いていた英語教育、とりわけ英語教師の資質に対する不満は強かったと言えるでしょう。

 大学在学中の論文「中学改良策」(明治二十五年)にある有名な箇所「何処にて修業したるや性の知れぬ者多く僅かの学士及び高等師範学校卒業生を除けば余は学識浅薄なる流浪者多し」が思い出されます。

 

# 若い頃の外山正一 

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より

 

 13歳で蕃書調所で英語を学び1864年には16歳にして開成所の教授方になるほど、若くしてその英才を謳(うた)われる。勝海舟の推挙により1866年(慶応2年)、中村正直らとともに幕府派遣留学生として渡英、イギリスの最新の文化制度を学ぶ。幕府の瓦解により1869年(明治2年)帰国。一時東京を離れて静岡で学問所に勤めていたが、抜群の語学力を新政府に認められ、1870年(明治3年)、外務省弁務少記に任ぜられ渡米。1871年明治4年)、現地において外務権大録になる。しかし直ちに辞職しミシガン州アンポール・ハイスクールを経てミシガン大学に入学。おりしも南北戦争の復興期であったアメリカの地で、哲学と科学を専攻し1876年(明治9年)に帰朝した。帰朝後は官立東京開成学校社会学の教鞭をとり1877年(明治10年)、同校が東京大学(後の東京帝国大学)に改編されると日本人初の教授となった。

 

 こんな華麗な経歴をもつ超一流の人物が、まだまだ発展途上にあった中学校の英語授業を参観して慨嘆したとしても何ら不思議ではありませんね。

 理想と現実の落差が大きすぎたというほかありません。

 

 

第13章 参考文献 *国立国会図書館デジタルコレクション 

川島幸希『英語教師 夏目漱石』新潮選書、二○○四年*森田草平夏目漱石甲鳥書林、一九四二年

*眞鍋嘉一郎『世界人の横顔』朝日新聞社編、四条書房、一九三○年

「玉虫一郎一宛書簡」『漱石全集』第十六巻 岩波書店 一九九四年
*外山正一『英語教授法』大日本図書、一八九七年
「語学養成法」『漱石全集』第十六巻、岩波書店、一九九四年