往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

10 「バッタとイナゴは違うぞなもし」 その1「宿直の夜の出来事」

 何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして蚤(のみ)のようでもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振って見た。するとざらざらと当ったものが、急に殖(ふ)え出して脛(すね)が五、六カ所、股(もも)が二、三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰(つぶ)したのが一つ、臍(へそ)の所まで飛び上がったのが一つ―いよいよ驚ろいた。早速起き上って、毛布をぱっと後ろへ抛(ほう)ると、蒲団(ふとん)の中から、バッタが五、六十飛び出した。(中略)
 おれは早速(さっそく)寄宿生を三人ばかり総代に呼び出した。すると六人出て来た。六人だろうが十人だろうが構(かま)うものか。寝巻のまま腕まくりをして談判(だんぱん)を始めた。
 「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
 「バッタた何ぞな」と真先(まっさき)の一人がいった。やに落ち付いていやがる。この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲(まが)りくねった言葉を使うんだろう。(中略)
 「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣(や)り込めた。「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕(つら)まえてなもした何だ。菜飯(なめし)は田楽(でんがく)の時より外(ほか)に食うもんじゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違うぞな、もし」といった。いつまで行つてもなもしを使う奴だ。(四)

(写真は近藤浩一路「漫画坊っちゃん」新潮社、1918年、国立国会図書館デジタルコレクションより)

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  近藤英雄『坊っちゃん秘話』(青葉図書、一九八一年)では、漱石の在任時、中堀貞五郎(地理・物理)の宿直中に、寄宿舎で似たような事件が起こったとして、次のように述べられています。

   「県下の遠方より来る生徒のために三四十名を収容し得る寄宿舎が、校庭の西北の隅に建てられていた。寄宿生が夏の夕食後などに、運動場の片隅で馬鹿話などをしていると大きなバッタが沢山飛んでいた。誰かがこれを舎監室の床に入れてやろうやといったら、皆手をうって賛成賛成といった。
 或晩に舎監室の寝床に入れた。その晩は地理、理科の一字一句もおろそかにしない綿密先生といわれる中堀貞五郎が宿直であった。(中略)
  コットリさん(中堀のあだ名)がランプを消して蚊帳に入ったらビックリ仰天、バッタ責め、小使に寄宿生を呼びにやった。結局寄宿生の頭目らしき者四、五名が大目玉をちょうだいしたが、舎内の出来ごととして口外せず、暗やみに葬られた事件があった。

 この事件のモデルは、中堀の他にも二人いたということです。
 相川良彦『漱石文学の虚実』(幻冬舎、2017年)では「一八九四~九五年ニカケテ『山本孝太郎ガ舎監トシテ宿直時ニ生徒ニ擾(さわ)ガレルノデ神経衰弱ニナリツイニ舎監ヲ辞シタ 橋本幸蔵モ同様ニイジメラレテ間モナク転任シタ』という二つの出来事」があったと、当時の教頭横地石太郎のメモを引用しています。
 さらに、寄宿舎にかかわる事件としては、次のような一件もあったとか。

 体操の教師で舎監の伊藤某が日頃から生徒への干渉が過ぎる上に、毎夜本館の小使室で寝酒にひたっているとの噂がありました。寄宿生たちはがそのことを指摘し、辞職勧告書まで突きつけました。しかし、この場合も学校側から穏便な妥協案が示されて、騒動には至らなかったというものです。(相川良彦「漱石先生と松山中学生との関係の虚実 ―『坊ちゃん』のもう一つの真相 ―」、「群系」二十八号、二○一一年)

 いずれにしても、「バッタ事件」漱石本人の体験にもとづくものではなく、当時の同僚が体験したものであったのは間違いないようです。
 幸い、大きな騒動には至らなかったようですが、学校当局の対応のしかた如何によっては、学校紛擾(ふんじょう)に発展しかねないような事件だったと言えるでしょう。