往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

9  「授業と宿直」  その1「勤務は三時まで?」

 勤務は三時まで? 

 いよいよ学校へ出た。初めて教場へ這入って高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思つた。(中略)二時間目に白墨を持って控所を出た時には何だか敵地へ乗り込こむような気がした。教場へ出ると今度の組は前より大きな奴ばかりである。(中略)三時間目も、四時間目も昼過ぎの一時間も大同小異であった。最初の日に出た級は、いずれも少々ずつ失敗した。教師ははたで見るほど楽じゃないと思った。授業は一と通り済んだが、まだ帰れない、三時までぽつ然(ねん)として待ってなくてはならん。三時になると、受持級の生徒が自分の教室を掃除して報知(しらせ)にくるから検分をするんだそうだ。それから、出席簿を一応しらべて漸(ようや)く御暇(おひま)が出る。いくら月給で買われた身体だって、あいた時間まで学校へ縛りつけて机と睨らめっくらをさせるなんて法があるものか。しかしほかの連中はみんな大人しく御規則通りやってるから新参のおればかり、だだを捏(こ)ねるのも宜しくないと思って我慢していた。(三)

 この部分を読んだときの素朴な疑問です。
 一、坊っちゃんは、連続して五時間も授業をしているが、週あたりの持ち時間は何時間だったのだろうか?
 二、「三時までぽつ然と~」と不平を言っているが、三時で勤務は終了なのか?  
 第一の疑問については、第七章に「生卵でも営養をとらなくつちや一週二十一時間の授業ができるものか。」と坊っちゃん本人が言うところがあって、持ち時間は週あたり二十一時間だったと分かります。
 これは筆者の経験から言うと、現在の公立高校の平均値からは3~5時間ほど多い持ち時間ではないでしょうか。
 その当時の実態を『全国公立尋常中学校統計書』(三井原仙之助、明治三十一年:一八九八)で確認してみました。
 同書の「第八表・教員書記数教員平均月俸及授業時数表」によると、全国百三十校中、最多持ち時間は二十七時間で、平均の持ち時間は十九時間程度となっています。やはり、二十時間を超える教員がかなり多かったようです。

 

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(昭和10年:1935年にP.C.L映画ー後の東宝ーで制作された『坊っちゃん』より、初授業のシーン。坊っちゃん役は宇留木 浩。youtubeより)

 次に、第二の疑問点ですが、三時といえば、まだ六時間目が終わっていない時間です。それで文句を言うのはいかがなものかとは思いますが・・・。
 当時の中学校一覧などの資料に当たりましたが、残念ながら教員の執務時間を記載したものは未見です。
 そこで、あくまでも推測の域を出ないのですが、月曜日から金曜日については、概ね午前八時から午後四時といったところではなかったかと思われます。
  というのも、明治二十五年(一八九二)の閣令第六号「各官庁執務時間改定」では、四月二十日から七月十日までの期間ではありますが、官庁の執務時間がそのように規定されていたからです。戦前の公立学校の校長及び教員は、第三章で見たように、身分としては官吏でした。ただ、その俸給は国庫から支給されず、道府県や市町村が負担するという方法をとっていたために「待遇官吏」と称されていました。
 というわけで、ここでは勤務時間については、官吏と同じではなかったかと推測してみました。
 ちなみに、この閣令では七月十一日から九月十日の執務時間を、午前八時から正午としています。なんと夏の二ヶ月は「半ドン」でした。冷房がない時代とはいえ、本当に古き良き時代ですね。
    なお、松山時代の漱石「嘱託教員」として勤務したために、実際には「受持級」はなく、掃除や出席簿などの点検もありませんでした。
 それでも親友の正岡子規に宛てた手紙には、「八時出の二時退出にて、事務は大概御免蒙り居候へども、少々煩瑣なるには閉口致候。」(明治二十八年五月二十八日付、岩波書店漱石全集』第二十二巻所収)と書いています。
 実質五時間の勤務で月俸八十円という、ずいぶんと優雅な身分だったのですが、親友宛の手紙には、つい愚痴が出てしまっています。

 

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(平成6年:1994年NHK製作の本木雅弘主演『坊っちゃん -人生損ばかりのあなたに捧ぐ-』、youtubeより)