往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

8  その2「教員控所」

 冒頭(8その1「初めての教場」)に引用した文中の「控所」というのは、「教員控所」を略した表現で、言うまでもなく、現在の「職員室」のことです。
 明治時代前期の「学校管理法」という教科書では、「教員控所」の他に、「教員詰所」とか「教員室」などといった名称が見られます。
 その後、中学校の校舎や教室についての根拠法令として、「尋常中学校設備規則」(明治二十四年十二月十四日文部省令第二十七号)、さらには「中学校編制及設備規則」(明治三十二年二月八日文部省令第三号)が制定されていましたが、どちらにも現代と同じく「職員室」の呼称が使われています。

「中学校編制及設備規則」より
第八条 校舎ハ左ノ諸室ヲ備フヘシ
   一 生徒各学級ニ応スル通常教室
   二 物理及化学、博物、図画ノ各特別教室
   三 講堂
   四 図書室、器械室、標本室
   五 職員室、生徒控所、其他所要ノ諸室

 しかし、愛媛県尋常中学校(後の松山中学校)以外にも、江東義塾、東京専門学校(後の早稲田大学)、高等師範学校(現在の筑波大学)、第五高等学校(現在の熊本大学)、第一高等学校、東京帝国大学明治大学などと、長年にわたり多様な教師経験を積んでいた漱石には、「職員室」や「教員室」という名称よりも「(教員)控所」のほうに馴染みがあったのではと推測されますが、いかがでしょうか。

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本木雅弘主演のNHK新春ドラマ『坊っちゃん ー人生損ばかりのあなたに捧ぐー』(平成六年:一九九四)から教員控室のシーン。服装にもご注目ください。)

 さて、「職員室」の名称の推移について、建築学の立場から考察した論文がありますので、その内容をご紹介します。
 「我が国の学校における職員室及び校長室の成立とその機能」(藤原直子、日本建築学会計画計論文集七十七巻、二○一二)という論文です。
 本論文では、尋常小学校の事例ではありますが、「教員空間」の名称の変遷をたどりながら、次のような興味深い考察がなされています。
 まず、「教員控所」という名称は、明治五年の学制公布直後から、明治二十一年頃にかけて、最も多く使われ、「職員室」と「教員室」がそれに続いていました。  
 ところが、明治二十二年以降になると、「教員控所」は見られなくなり、「職員室」と「教員室」の数がほぼ拮抗してきます。
 そして、明治四十年代以降は、大正、昭和戦前期に至るまで、「職員室」の名称にほぼ統一されるようになります。
 初期の「教員詰所」、「教員控所」(傍点筆者)という名称は、この空間の「初源的機能は休息」であったことを表していました。しかし、それが明治二十年代後半以降には「職員室」、「教員室」と改まっていく背景には、この教員空間が「漸次、事務や校務に加えて会議などの場となり、学校経営の場」となっていった経緯があることが指摘されています。

 

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広島城北中・高等学校の職員室。「中高約80名の教員デスクを学年単位で設置しています。両サイドには学年会議ができるスペースの会議室もあります。」という説明があります。同校ホームページより。http://www.hiroshimajohoku.ed.jp/school/equipment/)

 

#  時代が変わり、明るく機能的な職員室が増えてきました。パソコンはもちろん、ワープロ専用機もなく、休み時間にはタバコ吸ってお茶飲んで・・・みたいな時代を知っている人もこれからだんだんと少なくなってくるでしょう。

 授業の空き時間には、皆さん机上のパソコンに向かって黙々と・・・という光景が普通になってきたような気がします。