往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

8   「教場と控所」 その1「初めての教場」

 初めての教場

 いよいよ学校へ出た。初めて教場へ這入って高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒は八釜(やかま)しい。時々図抜けた大きな声で先生という。先生には応えた。今まで物理学校で毎日先生々々と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯な人間ではない、臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする。最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。しかし別段困った質問も掛けられずに済んだ。控所へ帰って来たら山嵐がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。(三)

  

f:id:sf63fs:20190208111457j:plain(明治三十七年竣工の茨城県立土浦中学校の教室、土浦第一高等学校進修同窓会ホームページよりhttp://www.sin-syu.jp/gallery.html

  「教室」のことを「教場」と呼ぶ例は、欧米の学校制度を紹介した書物や師範学校の教科書であった「学校管理法」などに多く見られます。明治初年代から二十年代にかけてはごく普通の呼称であったと思われます。
 次に、「教場」の用例を、小学校教員を主人公にした二つの小説作品中から挙げてみます。

   その日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少しばかり観た。郡視学が校長に与えた注意というは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、または学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件であった。応接室へ帰ってからでも、一同雑談で持ち切って、室内に籠る煙草の烟はちょうど白い渦のよう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入ったりしていた。
      (島崎藤村『破戒』、明治三十九年)

 

 翌日、朝九時に学校に行ってみた。けれどその平田というのがまだいたので、一まず役場に引き返した。一時間ばかりしてまた出かけた。今度は もうその教員はいなかった。授業はすでに始まっていた。生徒を教える教員の声が各教場からはっきりと聞こえて来る。女教員のさえた声も聞こえた。清三の胸はなんとなくおどった、教員室にはいると、校長は机に向かって、何か書類の調物をしていたが、「さアはいりたまえ」と云って清三のはいって来るのを待って、そばにある椅子をすすめた。
     (田山花袋田舎教師』、明治四十二年)

 

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 作品の舞台に、中学校と小学校という違いはありますが、どちらも『坊っちゃん』(明治三十九年四月)と発表時期をほぼ同じくする作品です。また、作者の生年についてみると、漱石(慶応三年・一八六七)、藤村(明治五年・一八七二)、花袋(明治四年・一八七一)の三人は、ほぼ同じ世代の人たちと言ってよいでしょう。
 先に挙げた「学校管理法」という教科書の中では、明治二十年代以降、「教場」に代わって「教室」が圧倒的に多数を占めるようになりますが、明治十年代に学校教育を受けた人たちにとっては、「教場」の方に馴染みがあったのではないでしょうか。
 

   これは、「教場」とは直接関係のない話ですが、『田舎教師』の主人公林清三のモデルである小林秀三は、埼玉県第二中学校(現埼玉県立県立熊谷高等学校)に在学中、一年間だけではありますが、坊っちゃんのモデルの一人とされる弘中又一漱石と同時期に松山中学校に在籍)から数学の授業を受けた言われています。            

# 明治37年(1904)に建てられた旧制土浦中学校(現茨城県立土浦第一高等学校)の本館(写真下)は、「国指定重要文化財」だそうです。映画のロケにも使われるとか。

 教室は机・椅子一体型のものが7×8=56脚並んでいるように見えます。当時のものは机の天板の面積が狭く、全体が小振りなようですから、大柄な生徒には窮屈だったことでしょう。

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