往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

4  その3「森有礼と学生服」「制服の着方が分からなかった話」

   森有礼と学生服

 これまで見てきた学生服の導入と普及の背景には、明治十九年(一八八六)に初代文部大臣に就任し、諸学校令を公布するとともに、学校への兵式体操(後の教練)を導入した森有礼(もりありのり)の国家主義的な思想があったと言われています。
 

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(写真は森有礼・弘化4~明治22年:1847~1889、国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)
 

 『学校ことはじめ事典』(佐藤秀夫、小学館、一九八七年)では、学生服導入の理由を、大きく二つに分けてとらえています。
 一つは、兵式体操の実施にともない、それまで主流であった和服に袴(はかま)、下駄履きという「書生スタイル」では、軍隊を模した集団訓練には不向きで、それにふさわしい服装が必要であったことでした。
 もう一つは、当時の中学生が同一年齢層の約一%というエリート中のエリートに属しており、彼らにその使命感を自覚させる必要から制定したというものでした。
 こうして見ると、詰襟の学生服というのは、衣服の機能という面でも、生徒の管理という面でも、たいへん重要な意味を背負わされたものだったいうことがよく分かります。
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 写真は、明治三十五年第1回卒業生の記念写真。校内紛擾があり、教員抜きの卒業式(?)だったとか。兵庫県立柏原高等学校ホームページ「百年の青春」より。

 

 制服の着方が分からなかった話

都市部に比べると、農村部では洋服の浸透は遅かったようです。
 明治三十三年(一九○○)に茨城県立土浦中学校龍ケ崎分校(二年後に独立、現在の茨城県龍ケ崎第一高等学校)に入学した河田重(かわだしげる)氏(後に日本鋼管株式会社社長)は、中学時代を回想した文章中で、次のようなエピソードを紹介しています。

   中学では小倉の服を着るのだが、その着方が分からないので閉口した。開校式の朝だったが、牛久という村からやってきた犬田作という生徒のいでたちを見て驚いた。ズボンを後ろ前にはき、おまけにその上にハカマを附けているではないか。なんでも、その子の家は昔の士族で、その朝おばあさんが「こんな大工のはく股引みたいなもので学校へ行くのは人様に失礼だから、その上にハカマをはいていらっしゃい」といったのが、かくも珍妙ないでたちになった原因だという。また、この日私たちは生まれて初めてフロックコートというものを見て目を丸くした。土浦本校の福山校長と、入江という分校の先生が一着に及んでいたのである。(『茨城県龍ケ崎一高百年史』より)

f:id:sf63fs:20190202112958p:plain 写真はフロックコートを着た官吏で、明治三十八年頃のもの。ブログ日本古写真倶楽部(http://blogs.yahoo.co.jp/dokidoki_puck)より。

 

 第4章 参考文献

  *国立国会図書館デジタルコレクション

坊っちゃん』(新潮文庫)新潮社 一九八九年
  佐藤裕子他編『坊っちゃん事典』勉誠出版 二○一四年
生涯学習愛媛No61」  http://www.i-manabi.jp/system/HON/SONOTA79_4.html
 *『愛媛県立松山中学校一覧 明治三十九年』 一九○六年
 *桜井役『中学教育史稿』受験研究社増進堂 一九四二年

(株)トンボホームページ
 (http://www.tombow.gr.jp/uniform_museum/style/style03.html
 *『山口県立山口中学校一覧 明治三十三年』 一九○四年
 佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館 一九八七年
茨城県立竜ヶ崎第一高等学校創立百周年記念誌“星霜百年白幡台”』