往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

8 番外「漱石の居た松山中学教員控室」

 相川良彦『漱石文学の虚実』(幻冬舎、2017年)という本の中に、下のような「松山中学職員室机配置図」というのが紹介されています。(元の表に教科・月俸-単位は円-を追加しています)

 

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 作家・松岡譲氏(奥さんの筆子さんは漱石の長女)が遺した書物の中に、明治40年1月1日の初版『鶉籠』(うずらかご・定価1円30銭)がありました。『坊つちゃん』『二百十日』『草枕』の3編が収められた、全500ページの豪華本です。

 『坊つちゃん』の196頁のうち、3分の2にも及ぶページの余白に書き入れがありました。その一つ一つに(横)と(弘)と明記されていましたが、やがてこの(横)は漱石の松山中学教員時代の「赤シャツ」モデルとなった横地石太郎、(弘)は坊っちゃんのモデルとなった弘中又一の書き入れとわかります。
 二人は大正12年(1923)頃、この本を読みながら、記憶を頼りに事実と比較したり、率直に感じたことなど自由に書き入れていったらしいのです。

    (その本は、初め横地氏の遺族が所有されていましたが、松岡譲氏がそれを借り、返せないままにお亡くなりになったということです。半藤一利漱石先生ぞな、もし』(文藝春秋、1992年)

 そうした「書き入れ」の一つが、上の「配置図」でした。

  相川氏はこの配置図から以下のようなことが読みとれるとしています。

 ① この机の配置は当時の松山中学の「教師ヒエラルキーをはっきりと反映している。

 ②西川、渡部、中村、中堀の4名が俸給額からも同中学の「重立」であった。

 ③通例の格付け基準にあてはまらないのが、どちらも帝大出の横地、夏目の二人で、高師出の校長が60円であるのに、月俸80円という「破格の待遇」で迎えられたのは、松山中学の学校騒動を沈静化するために、住田校長のとった苦肉の策であった。

 

    29歳の帝大出の文学士は、やはり特別な存在、いわば「期待の星」だったのですね。