■夏目金之助の前任者
明治二十八年(1895)四月十日付で愛媛県尋常中学校の嘱託教員となった夏目金之助(漱石)の前任者は、キャメロン・ジョンソン(Johnson,Cameron)というアメリカ人でした。
ジョンソンはアメリカ・ミシシッピー州出身でユニオン神学校を出た後「アメリカン・ボード」(アメリカ最古の超教派的な外国伝道団体)宣教師となり、明治二十六年(1893)年九月同志社普通学校に着任。翌二十七年(1894)六月には同校を離任して、愛媛県尋常中学校へ赴任しています。
■給料の差は歴然
C・ジョンソンの給料月額は一五〇円でした。これは当時の中学校教員俸給表の最高額に相当します。
一方、漱石は半額強の八〇円でした。しかし、これでも破格の待遇でした。
ちなみに校長の住田昇は六〇円(高等師範)、教頭の横地石太郎は八〇円(帝国大学)、首席教諭の西川忠太郎は四〇円(札幌農学校)となっています。
今で言う国家公務員のキャリア組でも、初任給は五十円の頃でした。学歴が給与の額に直結していた時代だったのです。
研究者によると、明治三十年代における中学校の外国人教師の給与は、平均して月俸一五〇円(年俸一八○○円)程度であったということです。
*その頃の一円は今の八千円という説があるようです。(4000~1万円とモノによっては結構幅があるとも・・・)仮にそれで計算してみると、ジョンソンは月給一二○万円、漱石は六十四万円をもらっていたということになります。
(愛媛県尋常中学校)
■夏目金之助が外国人教師の後任となった理由
地元の『海南新聞』(明治二八年四月十一日付)は漱石の着任に際して次のように報じました。
「本県尋常中英語教師には文学士を聘(へい)する筈(はず)にて過般来適当の人を捜索したるに同校既定の給与にては適当の人を得難きがため、他の項より流用してなりとも八〇円を出さば英語を専修せし文学士にして且(か)つ教育の経験もある人を得らるゝよしにて終(つい)に雇入れに定まりしなりと聞く」
なんと、着任前に給与月額をばらされてしまっていたのですね。
愛媛県当局では、外国人教師キャメロン・ジョンソンの後任に優秀な日本人教師を確保する方針を内定していました。
その背景には大きく次の二つのことが挙げられます。
一つは、日清戦争の勃発、中国情勢の混乱により、アメリカYMCA教師団の日本派遣は一時中止となりました。外国人教師が不足し、日本人の英語教師(帝国大学・慶応義塾・同志社卒業生その他)を補充する必要が生じたことでした。
もう一つは、 経済的背景でした。 明治二十七年頃から為替は金本位制の下で「一ドル=二円強」で推移していました。 その結果、お雇外国人教師はドル契約であったために、日本円での報酬額二倍にアップすることになり、日本人英語教師を採用せざるを得なくなったというのです。