往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

13  その2「文学士・夏目金之助の授業ぶり」

「辞書が間違ってゐるんだ」 

    坊っちゃんは、数学の教師という設定ですが、作者の漱石は元々が英語の教師ですから、ついつい英語教師の癖が出てしまうところがあります。
 愛弟子の森田草平が、『夏目漱石』(甲鳥書林、昭和十七年:一九四二)の中で指摘していることですが、第三章に、下宿の主人に書画骨董を勧められた夜、「主人が引き下がってから、あしたの下読をしてすぐ寐(ね)てしまった。」(太字筆者)というのがそれです。
 それはさておき、我が国で二人目の英文学専攻の文学士・夏目金之助愛媛県尋常中学校で、どんな授業をしていたのでしょうか。
 眞鍋嘉一郎(まなべかいちろう、明治十一年~昭和十六年・一八七八~一九四一、東大医学部教授で漱石の臨終を看取った、下の写真)は次のようなエピソードを紹介しています。

 

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 おれは教場で先生いぢめをやりだした。一生懸命
棚橋一郎さんのウェブスター辞書を暗記して教場へ
出た。
 『先生』と大きな声で怒鳴つてから
 『それは違ひます。辞書にはかう書いてあります。
エヘン』
とやつて引き下がると、夏目先生は
 『辞書が間違つてゐるんだ。直しておけ』
とあべこべにこつちをやっつけた。
 (中略)
 黄色い声であったが、少し気取った抑揚をつけて、スケッチブックなどを講義すると、宝玉の如き麗句が口をついて出るので思はず聞き惚れてしまふ。だが講義は滅法(めっぽう)やかましかつた。文章を細かく解剖して、一字一句も決してゆるがせにしない。先生の講義を聴いて、英語の奥深い味はひが初めて解った。そして今までの先生の、通弁(通訳)式の上すべり英語はみんな誤魔化しだと思つた。                 
 眞鍋嘉一郎『世界人の横顔』(朝日新聞社編、四条書房、昭和五年:一九三○)

  

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(「ウェブスター氏新刊大辞書和訳字彙 」/イーストレーキ、棚橋一郎訳、東京 三省堂 1888(明治21)年)

  

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愛媛県尋常中学校時代、明治29年卒業写真より)

また、眞鍋氏は、こんな回想も残しています。

 夏目先生が来て、スケツチブツクを講義し初めると、不思議によくわかつて、英語の面白味が初めて感ぜられるやうになつた。先生は吾々に四五年を通じてスケツチブツクのヴオイエージとロスコーとブロークン・ハートの三章を講義された。
 先生の英語の教授法は、訳ばかりでは不可(いけ)ない、シンタツクスとグラムマーを解剖して、言葉の排列の末まで精細に検討しなければならぬと云ふので、一時間に僅(わずか)に三四行しか行かぬこともあつた。そのため二年間にスケツチブツク三章しか読了しなかつたのである。プレフイツクス、サフイツクスを始終やかましく云ふので、夏目さんのプレフイツクス、サフイツクスと云つて吾々の間に通つてゐた。(「夏目先生の追憶」)
*シンタツクスとグラムマー・・・構文と文法
*プレフイツクス、サフイツクス・・・接頭語と接尾語

    とびきりの秀才(首席で級長)で、後に主治医にもなられた方の回想ですから、これをそのままに信じるのはいかがなものかとは思われます。
 しかし、いずれにしても、松山という一地方都市の中学生たちには、もったいない先生だったという点において間違いはないでしょう。
 なお、「先生は吾々に四五年を通じて~」とありますが、漱石は松山に一年いただけですから、これは明らかに記憶違いということになります。

 一方、当の「夏目先生」は松山の生徒たちをどのように見ていたのでしょうか。

 これについては、自らの後任として赴任した文科大学英文科の後輩である玉虫一郎一(たまむしいちろういち)宛の書簡(明治二十九年七月二十四日付け)の中に「松山中学の生徒は出来ぬ癖に随分生意気に御座候間(ござそうろうあいだ)可成(なるべく)きびしく御教授相成度(あいなりたし)と存候(ぞんじそうろう)」という部分があって明らかです。
 この点では、作中の坊っちゃんほど過激な言葉は使っていませんが、基本的には同じような見方をしていたことが分かります。

 

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 午後は、久しぶりに市立図書館の分館へ。ブログのネタ探しをかねていますが、帰り際に特集コーナーで見つけて借りたのが、「青春18きっぷ達人の旅ワザ」(松尾定行)でした。

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 これまでに何度か18切符は利用したことがありますが、大阪→東京は2年前の今頃チャレンジしようて沼津で途中下車、結局一泊しました。(翌日横須賀へ戦艦三笠を見に行きました)

 ぜひ通しで行って、寄席巡りしたいなと思いながら、なかなか実現しません。「その日」のために、今はせめて本を読んでノウハウを知っておこうといったところです。

 ちなみに、この松尾さんは私の出た大学の同じ学科の数年先輩にあたる方です。卒業生は多くが中・高・大学の先生になっています。文筆家やジャーナリストは大変珍しいので記憶に残っていました。(そういえば、同期にも柳本通彦君という台湾在住のジャーナリストがいました!)