生徒控所
教員に「教員控所」があったと同じく、生徒たちにも「生徒控所」という空間が用意されていました。当時の「教場」(教室)は「授業と試験」のみに使用され、登校時、休み時間、昼食などの間、生徒たちは「生徒控所」や校庭(運動場)で過ごすよう規則で定められていました。
松山中学校でも、「凡(およ)ソ教室ノ出入ハ授業開始ノ号音ニ応シ序次ヲ正シク之ヲナスヘシ尤モ休憩中ハ猥リ(みだ)ニ教室ヘ立入ヘカラス」(生徒細則のうち第七章教室細則第三十三条「愛媛県立松山中学校一覧、明治三十九年四月)と、授業時以外の教室ヘの立ち入りを禁じていました。
それでは、この「生徒控所」(「扣所」と表記されることも多い)とはどのような空間であったのでしょうか。
中学校時代を回想した文章で「生徒控所」(控場)に言及したものを二つ挙げてみます。
「明治二十九年の頃」(第十四期 牧 牛尾)
生徒控所は博物教室の西側に柱なしのバラック式の広い一棟であった。東と西に窓があったかと思うが、北側と南側に大戸のある出入り口が設けてあるのみ。中に長方形の長い机と長い腰掛けが荷物の置けるだけ備え付けてあるのみであった。土間で大きな四角の木の火鉢が四隅にあったと思う。現時から考えて面白いのは、上級生などの盛んに煙草を吸うことであった。(中略)中には「火の用心」と書いた煙草入れを腰に下げて居る豪傑も居た。
(『大分中学校創立五十周年誌』、昭和十年:一九三五、写真は『大分縣写真帖』より)
「七十八年の思い出と感想」より「登校」(第二回生 永 重貞)
登校すると、まず控場に入り、控場南窓下に縦三十センチ、横二十五センチ程の枠が五段ほどあって、控場東から西迄一杯に作ってあって、各人に一枠宛割り当てられ、その枠内に教科書、弁当等持ち物を納め、次の勉強に入り用の物を持ち、時報が鳴ると各組整列、順次各教室に入る。(窓下の各個割り当ての枠の前に、幅三十センチ長さ二メートルの腰掛けが、枠に垂直に並べてあって、腰かけ休み、また食事もする。)
(『兵庫県立伊丹高等学校八十周年記念誌』、昭和五十七年:一九八二)
どれぐらいの面積の建物だったのでしょう。
『大阪府立北野中学校一覧』(明治四十~四十一年)によれば、普通教室(十八坪八合五勺)、生徒控所(百四坪三合二勺)となっています。これをメートル法に直すと、普通教室は六十二.四平方メートルなのに対して、生徒控所は三百三十四.一平方メートルと、約五.五倍の広さを有していることになります。ただ、同年の在籍生徒数は五百五名であり、必ずしも十分な広さの空間とは言えないようです。
(「明治三十九年愛媛県立松山中学校一覧」より校舎配置図、左下が生徒控所)
大分中学校の回想の中に、「現時から考えて面白いのは、上級生などの盛んに煙草を吸うことであった。」という記述があります。
「明治の中学生はタバコ吸っていたのか!?」と驚かれた方もおありでしょう。
実は、この時点では「未成年者喫煙禁止法」(明治33年3月7日 法律第33号)が公布されていなかったのでした。もちろん、校則で校内での喫煙を禁止している学校のほうが多かったようですが、中にはそうでない学校もあったことがわかります。
教場へ入るときは
伊丹中学校の回想記を読んでいて気になったのは、「時報が鳴ると各組整列、順次各教室に入る。」という部分です。
朝早く登校した者から順に教室に入るのではなく、各クラス隊列を組んで入室という光景が毎日繰り返されていたのです。
斉藤利彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開ー』(東京大学出版会、一九九五年)には、東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)における厳しい時間管理の様子が次の規則を例に挙げて紹介されています。
一 始業時前 三分 用意号音(生徒集合ノ用意ヲ為ス)
一 始業時 生徒整列場ニ集合ス
一 始業時後 三分 人員検査号音(体育科教師生徒ノ人員服装ヲ検ス)
一 人員検査号音後七分 学科始メ号音(呼吸運動開始)
一 学科始メ後 廿分 学科分レ号音(呼吸運動終リ)
一 学科分レ後 十分 学科始メ号音(生徒整列場ニ集合組長之ヲ率ヒ教室ニ至ル)
一 右同時 電鈴(教員教室ニ至リ生徒ノ廊下ニ来ルヲ待チ組長ノ号令ニテソノ敬礼ヲ受ク)
一 学科始メ後 三分 点鐘(生徒教室ニ入ル)
一 点鐘後 四十七分 学科分レ号音(生徒ハ組長ノ号令ニテ教員ニ敬礼ヲ為シ廊下ニ整列組長ノ引率ニテ運動場ニ出ヅ)
一 学科分レ後 十分 学科始メ号音(以下総テ前ニ同ジ)
(「東京府立第一中学校細則」、明治四十二年写真は日比谷時代の府立一中、明治33年頃)
百余年後の今日から見ると、これは軍隊の学校ではないかと思われるぐらい、まさに分刻みの厳格な規則です。
明治三十七年の『陸軍士官学校一覧』には次に挙げるような規程がありますが、府立一中ほどは細かくありません。
生徒講堂其他ノ教場ニ出ルトキハ教程及手簿等受業ニ必要ナモノヲ携ヘ速ニ中庭(風雪天ノ時ハ廊下)ニ整列シ取締生徒若ハ其不在ニ當テハ上列生徒ノ誘導ニ従ヒ厳粛ニ行進スヘシ
(「第五 生徒心得 第三章 敬礼」より,陸軍士官学校編纂,東京兵事雑誌社,)※教程・・・教科書、手簿・・・ノート(筆者注)
ちなみに、斉藤氏は「同校(東京府立第一中学校)は、全国の中学校の『生徒管理』のあり方にも少なからぬ影響を与え、かつ同時期を代表する管理の態様の一つの側面を具現していたものと思われる」としています。
研究者らしく慎重な表現をされていますが、卒業生の回想によると、当時世間では、府立一中のことを「規則学校」とか「詰込学校」などと呼んでいたということを付け加えておきます。
第8章 参考文献
*印は国立国会図書館デジタルコレクション
島崎藤村『破戒』(筑摩書房、現代日本文學大系十三 島崎藤村集(一) 一九六八年)
田山花袋『田舎教師』旺文社文庫、一九八五年
*藤原直子「我が国の学校における職員室及び校長室の成立とその機能」 日本建築学会計画計論文集七十七巻、二○一二年*『愛媛県立松山中学校一覧』 一九○七年
*『大分中学校創立五十周年誌』一九三五年『兵庫県立伊丹高等学校八十周年記念誌』 一九八二年
*『大阪府立北野中学校一覧』(明治四十~四十一年)一九○八年
斉藤利彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開ー』(東京大学出版会、一九九五年*『東京府立第一中學校創立五十年史』 一九二九年
*陸軍士官学校編纂『陸軍士官学校一覧』(東京兵事雑誌社、一九○四年)