往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

コラム7  「兵式体操」

 「兵式体操」というと、何か軍の学校で行われていた体操かと思われそうですが、「普通体操」とともに、教科としての「体操」の時間に行われていたのでした。
 ちなみに、現在の「体育」という言葉も古くからありましたが、教科の名称となったのは、戦後のことです。 

 兵式体操は、明治十八年(一八八五)に初代の文部大臣に就任した森有礼(もりありのり)が主導して学校教育に導入しました。軍隊式の体操や集団訓練を通して、良き臣民の育成に向けての徳育的錬成を行おうとしたのでした。
 普通体操が保健衛生的な思想から生まれたものであるのに対して、兵式体操は富国強兵、国民皆兵という国策の下、軍事予備教育として実施されたと言うことができます。

 明治三十五年(一九○二)改正の中学校教授要目「体操」は次のように規定されています。

       第四学年及第五学年               毎週三時以上
  普通体操 前学年に同じ
  兵式体操 柔軟体操 各個教練 小隊教練 中隊教練 器械体操 号令演習

 

 

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岐阜県立岐阜中学校における兵式体操。明治四十二年、皇太子殿下岐阜県行啓の際に撮られたもの。岐阜県歴史資料館バーチャルミュージアムより。http://dac.gijodai.ac.jp/vm/virtual_museum/database/page2/H11-PCD0570-H11-PCD0570-027m.html

 この他、学校を離れての野外演習発火演習も定期的に行われました。
 生方敏郎(うぶかたとしろう、作家、明治十五~昭和四十四年:一八八二~一九六九年)は、明治三十年頃の様子を次のように回想しています。

 下士官として日清戦役に出征したことのある退役軍人が、体操教師として赴任して来た。これなら本物の体操教師で、従来作文や地理の先生が体操教授を兼任していたのとは違い、万事が軍隊式だった。(中略)言葉も無論、漢語交りの兵隊言葉だった。たとえば簡単明瞭というべきところも、その倒さまに「たんかんめいりょう」と言った。(中略)
 西南戦争の際に用いられたスナイドルという旧式の鉄砲が、何百挺か購入せられた。私たちは初めて鉄砲というものを持つことが出来るので、見た時には悦(よろこ)んでいたが、イザ持って見ると重いの重くないのって、そりゃ大変な代物(しろもの)だった。立て筒から担(にな)ええ筒、捧げえ筒など、兵隊のやる通りのことを教えられ、(後略)  
生方敏郎『明治大正見聞史』(中公文庫 1978年)

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戊辰戦争時にイギリスを通じて薩摩藩に導入され、新政府軍が使用したが、日清戦争後に開発された三十年式歩兵銃が採用されると、完全に旧式火器となったスナイドル銃は引退し、学校教練(兵式体操)用に払い下げられた。http://matome.naver.jp/odai/2150085875557472901/2150086393160548003

 文中にもありますが、兵式体操の担当教員には陸軍の下士官上がりの人が多かったのでした。特に、明治三十年代は中学校の急増期であり、正規の体操教員の補充が追いつかず、「陸軍歩兵科下士任官後満四年以上現役ニ服シタル者」という条件で、無試験検定により任用されていきました。
   この兵式体操の教員は、寄宿舎の舎監を兼ねることが多く、いわばエリートの予備軍だった当時の中学生との間で、随所に軋轢(あつれき)を生じたようです。

  

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(明治39年の三重県立第一中学校の教員名簿。兵式体操担当教員は「陸軍教導団歩兵科卒業」と記されています。)
 『坊っちゃん』の「イナゴ事件」にしても、漱石在任当時の舎監(兵式体操担当)に対する舎生の不満から生じた一騒動が、そのモチーフになったのではないかと言われています。

 日露戦争が終わると、陸軍から文部省に対して、中学校の教科「体操」において、普通体操を廃して兵式体操に一本化してほしいという要求がありました。もちろん、文部省はこれを拒否しましたが、その後数年間の折衝を経て、両者妥協の上で、「兵式体操」は大正二年(一九一三)に「教練」という名称に変更されます。 

 さらに、大正十四年(一九二五)「陸軍現役将校学校配属令」が施行されたことで、中学校における軍事教練は、ますます本格化していくことになっていきました。