往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム2  「修学旅行」

 

 修学旅行というのは、我が国独特の学校行事だということです。 
   その先駆けとなったのは、東京師範学校(後の高等師範学校)が明治十九年(一八八六)に行った「長途遠足」でした。十二日間で千葉県の銚子方面へ徒歩遠足を行いました。その間に、生徒たちは鉄砲をかついで発火演習をする一方で、各地で学術調査をしたという記録が残っています。
    修学旅行の教育的価値を認めた文部省は、明治二十五年(一八九二)に訓令を発して、その奨励を図ります。

    夏季休業及び期末休業など(中略)、教員をして生徒を率いて修学旅行をなさしめ、山川郊野を踏破して、その身体及び精神の鍛錬をするとともに、知見を広めんことを務むべし。」(傍線筆者)

 明治の中期には、修学旅行と兵式体操は不可分というケースが多く見られました。その代表的な例に、兵庫県鳳鳴義塾(現在の県立篠山鳳鳴高等学校)があります。同校では、武装行軍旅行」と名づけ、全校を挙げて軍隊式の厳しい徒歩行軍旅行を行ったということです。
 修学旅行というと、在学中に一度実施というのが普通ですが、当時はいわゆる「学年制の修学旅行」ともいうべきものが広く行われていました。
 東京府尋常中学校(後に府立一中、現在の都立日比谷高等学校)では、明治二十四年(一八九一)に「三年生:大宮公園(一泊徒歩)、四年生:箱根(二泊)、五年生:日光(二泊)」という記録があります。

    明治も後半に入ると、兵式体操が切り離され、行軍型の旅行は減少していきます。それに代わって、鉄道網の普及とともに、観光・見物型の修学旅行が主流になっていきます。

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(写真は沖縄県尋常中学校ー現在の県立首里高等学校ーが、明治二十七年修学旅行で京都を訪れたときのもの。約1ヶ月にも及ぶ旅程でした。脚にはゲートルを巻いています。
社団法人・養秀同窓会公式サイトよりhttp://www.youshu.com/display_photo.php?photono=47

 そのあたりの事情を、『学校ことはじめ事典』(佐藤秀夫、小学館)ではこう述べています。

    修学旅行が行軍と分離するきっかけは、鉄道の利用であった。明治三十三年(一九○○)、文部省は初めて「官設鉄道ノ学校生徒乗車賃金割引方」を通知する。「学割」の始まりだが、(中略)
 今世紀初頭から「修学旅行」は、中等学校を中心に広く普及するようになり、首都東京の見物、伊勢・京都・奈良の『日本のふるさと』めぐりなどの方式が定着する。

 明治三十年代には、物見遊山的な修学旅行について、批判が起こるようになります。「教育時論」のような有力な雑誌にも、識者による厳しい論調の文章が掲載されました。
 旅行中の風紀の乱れ、旅行費用の高額なこと、学習効果の乏しいことなどが主な批判の論点でした。
 日露戦争後には大陸政策の進展とともに、主に九州地方の中学校や商業学校の中には、朝鮮や満州中国東北部)へのいわゆる満韓修学旅行を実施する学校も出てきました。
 その後、明治の末年から大正・昭和にかけては、京都、奈良、伊勢などといった国内の名所旧跡、神社仏閣参拝という見学・見物併用タイプの修学旅行が主流となり、伝統的なスタイルとして確立されていくことになります。