往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム4  「落第と半途退学」

  明治時代の中学生活を回想した文章に、「入学したときは○○名だったが、卒業時には○○名になっていた。」などという記述を見かけることがあります。
 半途退学(中途退学)者が、今では想像できないぐらいに多かったのが、明治時代の中学校でした。兵庫県では、明治三十八年(一九○五)の県立中学校の入学者のうち、卒業までに五十一%が退学していったというデータが残っています。(兵庫県教育委員会兵庫県教育史』)
 当時の中学校は、競争原理に基づく「淘汰機関」のような性格を持っており、無事に五年で卒業するには、「健康」・「経済力」・「学力」という三つの条件を満たす必要があったと言われています。
 まず、「健康」の面では、やはり医療の未発達もあって、脚気、心臓病、肺炎といった病気(死亡も含む)のため、退学せざるを得ない若者がいました。その数は全国で年間に二千人を超えました。
 次に、「経済力」ですが、平均すると約一割の者が、授業料不納を理由に学校を去らざるを得ませんでした。
 明治四十年頃を例にとると、自宅通学生で月に平均一円四十銭、寄宿生では十円前後の費用を要しました。地方では、小学校正教員の月俸平均が十五円前後の時代でした。下級役人や中規模以下の農家などでは、子弟を中学校に学ばせる余裕はありませんでした。
 最後の「学力」不足による落第。半途退学の理由として最も多いのがこれでした。背景には、一科目でも落第点があると進級が認められないという厳格な規程がありました。「辛い点をつけないと、生徒は発憤して勉強しないものだ」という教員側の意識もあったと思われます。
 東京府立三中(現在の都立両国高等学校)の例を挙げると、「明治四十三年四月に入学し、大正四年三月に卒業した学年は(中略)四三九人が入学を志願し、一四五人が合格したが、一度も落第せずに五年を終えて卒業した生徒はわずか五十人だった」(岡田孝一『東京府立中学』)ということです。
 また、一つには学校間の接続の問題もありました。高等小学校二年~四年終了で身に付けた学力と中学校で要求されるそれとに、大きな断絶があったのです。一年、二年時における落第、半途退学が多いのもそのことが要因だったと思われます。

 以上の他に、「強制された半途退学」と言うべきものもありました。
 明治三十六年(一九○三)~四十五年(一九一二)までの十年間、全国の半途退学者のうち、ほぼ八人に一人が「処分」により退学していったというデータが残っています。(文部省普通学務局『全国中学校に関する諸調査』)
 「処分」というと、「性行不良」による懲戒処分を思い浮かべてしましまいますが、実際は「学力劣等」や「長期の欠席」などが大半でした。広い意味での学校生活への不適応が原因ということになるでしょうか。

 さて、退学した者たちは、どういう進路を選んだのでしょうか。
 もちろん、多くは農業、商工業などの家業を手伝ったり、就職の道を選んだりしたわけですが、東京及びその近郊では、私立の中学校に転校する者も多く見られました。

 第五十五代の内閣総理大臣(昭和31年12月~昭和32年2月)を務めた石橋湛山(いしばしたんざん・明治十七年~昭和四十八年:一八八四~一九七三)は、明治二十八年(一八九五)に入学した山梨県尋常中学校(後の甲府中学校、現在の山梨県立甲府第一高等学校)で一年、四年と二度の落第を経験していますが、その頃を次のように回想しています。

 二度まではどうか知らぬが、中学で落第する者は、私のほかにもないではなかった。しかし、これらの人は落第すると、多くは東京あたりの他の学校に転校した。(『湛山回想』岩波文庫 一九八五年)

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  明治三十年代の東京の私立中学では、入学者の大半が二学年以降の入学者(転入生徒)で占められていたと言います。中には、短期間での卒業証書取得や飛び級を目的にした者もいたようですが、公立の中学校を退学して転校してくる生徒が少なからず存在したのは事実です。(武石典史「明治後期東京における私立中学校の機能」)
 こうした厳しい進級の実態も、明治の末頃にかけて、次第に緩和されていきました。
 しかし、公立中学校が「淘汰機関」という性格を脱するには、まだかなりの年月を要したのでした。

 下は『明治34年静岡県立静岡中学校一覧』より「入退学生徒数」のページ。半途退学者の比率は次第に低くはなっていますが・・・。

  

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# 石橋湛山は私がまだ1、2歳の頃の総理大臣。就任後まもなく脳梗塞で倒れたということです。現行憲法下で短命内閣の第2位だそうですが、就任時点で72歳(今の80代に匹敵するのでは?)ですから、お気の毒なことです。