往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

5 その2「門衛・喇叭手」

   多くの中学校には、正門脇に門監所(舎)があり、門監(門衛)、喇叭手が詰めていました

(写真は明治20年代と思われる福岡県立中学修猷館の正門付近、門衛らしき人物が写っています。『修猷館物語』より)

  

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    明治中頃に中学校生活を送った方が喇叭手に言及した文章を二篇紹介してみます。

「四十年前の在学当時回顧片々」(十二期 朝倉 毎人)
    喇叭の合図=寄宿舎の自習、起床、就寝、休憩等の時間の合図は皆軍隊式の喇叭であった。軍人上がりの岩崎と云う名喇叭手が居た。岩崎の交代相手に居た後藤と云う軍隊出の一青年が居た。之も岩崎に劣らぬ吹手であった。聞けば後藤君母校に勤続して居るそうだ。

 

「明治二十九年の頃」(十四期  牧 牛尾)
    この門監に始業終業の合図をする喇叭手が二人控えて居った。喇叭手は確か岩崎と云う男と後藤と云う男であったと思う。この両人は行軍の時はよく先頭を承って進軍喇叭を吹奏した、中々威風堂々たる行軍であった。この喇叭で授業の合図をして居たのは何年頃までであったか記憶がない。
『創立五十周年大分県立大分中学校』「思ひ出五十年」(昭和十年:一九三五)より)

 それでは、門衛や喇叭手の仕事は具体的にどのようなものだったのでしょうか。服務規程を一つ挙げておきます。 

一 門監 喇叭手 心得

第一條 本校表門ニ門監ヲ置キ生徒其他ノ出入ヲ監督セシメ且ツ定時ニ喇叭ヲ吹奏セシム
第二條  門監ハ生徒監及ヒ事務部ノ監督ニ属ス
第三條    門監ハ二名ノ内一名ハ常ニ昼夜トモ寸時モ門監所ヲ離ルヘカラス一名ハ小使ト交代シテ午後ヨリ事務室ニ服務スヘシ
第四條  門監ハ常ニ出入ノモノニ注意シ若(も)シ怪シキモノ及ヒ生徒ニシテ服装ニ違フモノ等アルトキハ之ヲ誰何(すいか)シテ出入ヲ禁シ生徒ニ関スルコトハ生徒監其他ノコトハ事務部ニ通知シテ処分ヲ請(こ)フヘシ
   (中略)
第十條 喇叭手ハ遠足、運動、行軍、演習、修学旅行等ノ際ニ随行シ其ノ任務ニ服スヘシ
第十一條 喇叭手ハ体操科教員ノ指揮ニ依リ銃器ノ手入ニ従事スヘシ
   (以下略)
 『明治四十四年新潟県新発田中学校一覧』より

(傍線・ふりがな筆者)

 このように、喇叭手は始業・終業などの合図だけではなく、日常の生徒管理や校外における学校行事などにおいても、教員の補助的な役割を果たしていたことが分かります。
 ちなみに、明治三十四年(一九○一)当時の東京府第二中学校(府立二中、現在の都立立川高等学校)では、喇叭手の給料は日給二十銭でした。

(岡田孝一、『東京府立中学』、同成社、二○○四年)
 日雇いの建設労働者の賃金が、明治三十三年(一九○○)では三十七銭という資料がありますから、待遇はあまりよくなかったようです。(『値段の明治大正昭和風俗史 上』週刊朝日編、朝日文庫、一九八七年)

  

第5章 参考文献 

*印は国立国会図書館デジタルコレクション

  

   *「東京府尋常中学校規則」(明治三十年、一八九七年)
   *「陸軍喇叭譜」明治四十三年:一九一○    
      *『大分県写真帳』大分県 大正九年:一九二○
      *『創立五十周年 大分県立大分中学校』同校 昭和十年,一九三五
      *『明治四十四年新潟県新発田中学校一覧』
      岡田孝一『東京府立中学』、同成社、二○○四年
      『値段の明治大正昭和風俗史 上』週刊朝日編、朝日文庫、一九八七年

 

 # 芥川作品に「喇叭の音」

芥川龍之介の『大導寺信輔の半生 ―或精神的風景画―』という作品に中学時代の「喇叭の音」に言及した部分があります。  

   彼は勿論学校を憎んだ。殊に拘束の多い中学を憎んだ。如何に門衛の喇叭の音は刻薄な響を伝へたであらう。如何に又グラウンドのポプラアは憂鬱な色に茂つてゐたであらう。信輔は其処に西洋歴史のデエトを、実験もせぬ化学の方程式を、欧米の一都市の住民の数を、――あらゆる無用の小智識を学んだ。(中略)信輔は鼠色の校舎の中に、――丈の高いポプラアの戦そよぎの中にかう言ふ囚徒の経験する精神的苦痛を経験した。のみならず――
 のみならず彼の教師と言ふものを最も憎んだのも中学だつた。(後略、太字・下線は筆者)

 芥川は明治38年に東京府立第三中学校(現在の都立両国高校)に入学しました。作中の記述とは違って、実際の彼は多くの教員にも愛される飛び切りの秀才で、43年に二番(首席という説も)で卒業し、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に無試験で入学が許可されています。