往事茫々 思い出すままに・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことを書き留めていきます

コラム13  「稚児さん」

 飲酒、喫煙、劇場等への出入り等々。当時の言葉では「風紀上の弊風」ですが、今風に言えば「生徒指導上の諸問題」とでも言うべきでしょうか。
 そうした中で、あまり公にされてこなかったものに、「鉄拳制裁」と並んで「稚児さん」というのがありました。
 『日本国語大辞典』(小学館)には「稚児」の説明として、「寺院や公家、武家などに召し使われた少年。僧の男色の対象となる場合があったところから転じて、一般に男色の対象となる少年をもいう。」とあります。
 明治三十四年(一九○一)に兵庫県立姫路中学校(現在の県立姫路西高等学校)に入学した哲学者・和辻哲郎(明治二十二年~昭和三十五年:一八八九~一九六○)が中学時代を回想した文章に、次のような一節があります。ここでは、「(鉄拳)制裁」の語も見られ、その関連性がうかがえる内容となっています。

 

f:id:sf63fs:20190314164702j:plain

 (写真左が少年時代の和辻哲郎。 ブログ「世に棲む日々」より、http://thomas-aquinas.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_6f5d.html

 

 新しく五年生になった藤田直市君が、朝登校の途中で、わたくしに注意を与えてくれた。今度の五年生のうちには下級生の生意気な奴に制裁を加えると言って騒いでいる連中がある。君もその連中に目を付けられている。雑誌を作って配ったりなんかして甚だ生意気だと言っている。気をつけなくてはいけないというのであった。(中略)
 あとで考え合わせると、どうやらこの時には同級の男の手先に使われていたらしい。腕力制裁の風と結びついていたのは稚児さん騒ぎで、それは永井校長の赴任にかかわらず、制裁のかけ声と同じ程度になお残っていた。わたくしは制裁のかけ声に驚いて間もなく、藤田君の同級生からわたくしの保護者になろうとする男が現れて来たので、それに気づいたのである。その男はむしろ小柄で、運動家らしい立派な体格や体力を持ってはいなかったが、しかし実にあつかましく、また執拗に、近づいて来ようとするように見えた。わたくしは幾分の恐怖を感じないでもなかったが、しかし心の底からその男に対する憎悪の念の湧き上がってくるのを感じ、口をきくことをさえも避けたのであった。
      『自叙伝の試み』(中央公論社、一九六一年)

  考えてみると、小学校を終えたばかりで稚気の抜けきらない十二、三歳の子どもを、十七、八歳の青年(中には落第して二十歳近い者もいたかも知れません)が追いかけるという訳ですから、目をつけられた側からすると、それこそ恐怖以外の何物でもなかったことでしょう。
    保護者とて、心配は同じであったことと思われます。
 美術史家の守屋謙二(明治三十一年~昭和四十七年:一八九八~一九七二)は岐阜県立大垣中学校(現在の県立大垣北高等学校)に入学した頃を次のように回想しています。

  

    中学校ではその頃、くお稚児さん〉といって、上級生が下級の美少年を可愛がることがはやった。これは旧幕時代からの風習であったかも知れない。母はそれを大変恐れて、私たち兄弟が放課後に外出することを厳禁したといってよい。 
「七十年の幻影」(「哲学」第五十三集、三田哲學會、一九六八年)

     少年愛、いわゆる男色といえば、江戸時代以前には武家文化の「負の側面」として、特に薩摩地方のそれがよく知られていました。
 明治に入ると、坪内逍遙当世書生気質』や森鴎外ヰタ・セクスアリス』などの作中で、「硬派の学生男色」として描かれています。
 漱石も「男色」という言葉は使っていませんが、随想集『硝子戸の中』(大正四年:一九一五、岩波書店)の中で、三十一歳で亡くなった長兄・大助(安政三年~明治二十年:一八五六~一八八七)が開成学校在学中に経験した「その種のエピソード」を紹介しています。

    兄は色の白い鼻筋の通った美くしい男であった。然し顔だちから云っても、表情から見ても、何処かに峻しい相を具えていて、無暗に近寄れないと云った風の逼った心持を他に与えた。
 兄の在学中には、まだ地方から出て来た貢進生などの居る頃だったので、今の青年には想像の出来ないような気風が校内の其所此所に残っていたらしい。兄は或上級生に艶書を付けられたと云って、私に話した事がある。その上級生というのは、兄などよりもずっと年歯上の男であったらしい。こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、果してその文をどう始末したものだろう。兄はそれ以後学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、極りの悪い思をして困ったと云っていた。          

硝子戸の中』三十六(新潮文庫、二○一六年)

    明治三十年代には、新聞「万朝報」を初め「教育時論」などの教育ジャーナリズムの誌上でも盛んに「学生の堕落」(高等教育機関の学生だけでなく、中学生も含む)が取り上げられました。そうした風紀上憂うべき諸問題の一つとして、この「学生男色」も話題になりました。
 広島高等師範学校(現在の広島大学)の教育研究会が全国の中学校を対象に実施したアンケート調査の結果をまとめた『中等学校寄宿舎研究』(明治四十一年:一九○八)では、寄宿舎生活における問題点として、「男色」を挙げた学校が四校(対象は二二四校)ありました。
 四校とは、極めて少ないようですが、やはり問題の性質上、回答を控えた学校も少なからずあったと見るべきではないでしょうか。
 中には、学校側が「男色の厳禁」を通達したところ、それが原因で「学校紛擾」(多くはストライキ)が起こった学校もあるという報告も含まれています。
 しかし、こうした風潮も、明治末年から大正期にかけて、表向きだけかも知れませんが、次第に影を潜めていったようです。

    その背景として、進歩的な思想としての「男女交際」や「恋愛」といった観念が、文化人を中心に徐々に社会的な広がりを見せていったことが挙げられます。
 また、明治末年にかけては、高等女学校の増設が相次ぎ、この間に「女学生ブーム」と呼ばれるような社会現象まで生まれたということも、重要な背景の一つと考えられています。

    そうした中で、中学生向けの有力雑誌「中学世界」誌上にも、「男女交際論」が登場し始めました。
 しかし、長らく「男女七歳にして席を同じうせず」という伝統的な教えが支配的であった時代ですから、やはり現実の中学校生活は何らの変わりなく、相変わらず窮屈なものだったようです。