挨拶をしたうちに教頭のなにがしというのが居た。(中略)それから英語の教師に古賀とかいう大変顔色の悪るい男がいた。(中略)それからおれと同じ数学の教師に堀田というのがいた。(中略)漢学の先生はさすがに堅いものだ。(中略)画学の教師は全く芸人風だ。(二)
午後は、先夜おれに対して無礼を働いた寄宿生の処分法についての会議だ。(中略)体操の教師だけはいつも席末に謙遜するという話だ。おれは様子が分らないから、博物の教師と漢学の教師の間へ這入り込んだ。(中略)左隣の漢学は穏便説に賛成といった。歴史も教頭と同説だといった。(六)
『坊っちゃん』には、「英語」、「数学」、「漢学」、「画学」「体操」、「博物」、「歴史」の教師が出てきます。
「漢学」というのは、漢学者とか漢学塾などという言い方があるように、古くからの呼び方です。正式な教科名は「国語及漢文」ですが、「国漢」と略称されるのが普通でした。
「画学」も正式には「図画」でした。
また、「博物」は主に動物、植物、鉱物について学ぶ教科で、今の「生物」及び「地学」に相当します。
なお、作品中にすべての教科の教師が紹介されているわけではありません。次に挙げる明治三十八年(一九○五)当時の教育課程表(明治三十四年の「中学校令施行規則」による)と比較すると、「修身」、「物理及化学」、「法制及経済」、「唱歌」の教師が作中には出て来ていないことが分かります。
文部科学省HP「学制百年史」より http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317630.htm
その中でも、「修身」は全教科目の首位におかれ、明治二十三年(一八九○)の教育勅語発布後は国民道徳、国民教育の基本として特に重視された教科でした。多くの学校では、校長自らが授業(講話)を行ったとされています。
余談ではありますが、愛媛県尋常中学校(後の松山中学校)では、漱石着任の半年ほど前のこと、生徒が一斉に神社に立てこもり、住田昇校長の修身の授業をボイコットする事件が起きたことがありました。
また、表の中には、「唱歌」(音楽)が週に一時間設定されていますが、これには「法制及経済」とともに、「当分之ヲ欠くコトヲ得」(当分はこの科目を開設しなくてもよい)という但し書きがついていました。したがって、男子ばかりで進学指向の強い中学校にあっては、英語、数学などに振り替えられるのが普通で、東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)のように、明治二十年代から「唱歌」の授業を実施していた学校は希(まれ)でした。
そんな中、「故郷の廃家」、「旅愁」などの訳詞で知られる犬童球渓(いんどうきゅうけい、明治十二年~昭和十八年:一八七九~一九四三、下の写真)は 、明治三十八年(一九○五)東京音楽学校(現在の東京芸術大学)を卒業後、兵庫県下中学校初の唱歌科教師として柏原(かいばら)中学校(現在の県立柏原高等学校)に赴任しました。同校同窓会「柏陵会」のホームページでは、その頃の様子を次のように紹介しています。
当時の校長、平沢金之助が、日露戦争で荒れる生徒の心をやわらげ、情操教育に役立てるため、音楽科を設け、犬童を招いたのだが、生徒たちは「音楽は女子がするもの」として反発。授業中、やじを飛ばし、机をたたくなど、授業を妨害した。犬童は心身ともに疲れ、赴任した年の十二月、辞職願を提出。新潟高等女学校に転任した。
http://hakuryo.org/a/2033
ちなみに、犬童は後に柏原中学校の校歌作曲を依頼され、それに応じました。最近、地元の柏原(兵庫県丹波市)では下のような動きが起こっています。
旧制柏原中音楽教師、犬童球渓が作詞「旅愁」記念碑
中でも、「漢文」については、その比重がずいぶんと重く、今の大学院生レベルの学力が要求されていたという人もいるほどです。
大学入試において「漢文」を出題しない大学が、特に私立大学で増えている現状からはとうてい想像もできないことです。