往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

7  「文学士と云えば」 その1「教頭のなにがし」

 文学士と云えば 

 校長に尾いて教員控所へ這入った。広い細長い部屋の周囲に机を並べてみんな腰をかけている。おれが這入ったのを見て、みんな申し合せたようにおれの顔を見た。見世物じゃあるまいし。それから申し付けられた通り一人一人の前へ行って辞令を出して挨拶をした。(中略)
  挨拶をしたうちに教頭のなにがしというのが居た。これは文学士だそうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだろう。妙に女のような優しい声を出す人だった。尤も驚いたのはこの暑いのにフランネルの襯衣
(しゃつ)を着ている。いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極ってる。文学士だけに御苦労千万な服装をしたもんだ。しかもそれが赤シャツだから人を馬鹿にしている。あとから聞いたらこの男は年が年中赤シャツを着るんだそうだ。妙な病気があったものだ。(二) 

   狸校長からのありがたい(?)お話の後、言われたとおりに教員控所で辞令を見せながら挨拶をする坊っちゃん。挨拶をしながら、次々とそれぞれの教員の特徴をよくつかまえていきます。
 この「赤シャツ」のモデルをめぐっては、当時の同僚教員の証言により、二、三のモデルがあるようですが、漱石は講演『私の個人主義』(大正三年十一月二十五日、学習院輔仁会において)の中で、次のように述べており、作者自身との近似をほのめかしています。

   『坊ちゃん』の中に赤シャツという渾名(あだな)をもつている人があるが、あれはいつたい誰の事だと私はその時分よく訊かれたものです。誰の事だつて、当時その中学に文学士と云ったら私一人なのですから、もし「坊ちゃん」の中の人物を一々実在のものと認めるならば、赤シャツはすなわちこういう私の事にならなければならんので、―はなはだありがたい仕合せと申上げたいような訳になります。

 

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 (NHK新春ドラマ『坊っちゃん ー人生損ばかりのあなたに捧ぐー』(平成六年:一九九四)から。赤シャツ:江守徹、校長:フランキー堺

 

「教頭」のなにがし

 現行の学校教育法では「高等学校には、校長、教頭、教諭及び事務職員を置かなければならない。(副校長を置くときは、教頭を置かないことができる。)」(第六十条二項)として、教頭は必置の職となっていますが、明治期半ば頃の尋常小学校や中等学校などでは、公式な職名としての「教頭」というのはなく、首席訓導や首席教諭のことをそう呼んでいました。
 教頭職が制度上確立したのは,昭和十六年(一九四一)の国民学校令においてでした。それによると,教頭は「其ノ学校ノ訓導ノ中ヨリ之ヲ補ス」(「国民学校令」昭和十六年三月一日勅令第百四十号、第四章職員第十六条)と規定されています。なお、訓導は小学校における正規教員の職名で、現在の教諭に当たります。 
 戦後は、教頭職の役割と法的地位の確立が重要とされ、昭和三十二年(一九五七)に文部省令の改正により、小中学校の教頭が職制化されましたが、依然として「充て職」で、独立した職として法律上明確な位置づけを得たのは、ようやく昭和四十九年(一九七四)になってのことです。
 明治時代の学事関係職員録といった名簿には、各中学校とも二~三名の教諭に「奏任待遇」という肩書きがあります。俸給順に並んでいるところから、そのうちの筆頭者を「教頭」と呼んでいたものと思われます。 

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(「明治44年兵庫県学事関係職員録」より。姫路中学、神戸中学とも校長以下4名が奏任待遇となっています。)

 

#「訓導」「教諭」

  「訓導」は戦前における尋常及び高等小学校,国民学校の正教員の職名。中等学校(中学校・高等女学校・師範学校)の正教員は「教諭」と称していました。