往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

2  その2「坊っちゃんは無資格教員!?」

   坊っちゃんは無資格教員だった!」というと、意外に感じられる向きも多いことでしょう。しかし、先に見たように、明治三十八年当時の物理学校は、「無試験検定の許可学校」ではなく、各種学校の扱いであったために、坊っちゃんは数学教員の免許状を持っていなかったのです。
 現在、何かの間違いで教員免許状を持たない教員が教壇に立っていたとなると、社会面の一大ニュースとなることはまちがいありません。
 しかし、『全国中学校に関する諸調査』(明治三十八年、文部省普通学務局)によれば、坊っちゃんが就職した当時は、有資格者が三,○六四人に対して、無資格者は二,○八一人と、全体の約四割をも占めていたのです。
    坊っちゃんが資格をとろうと思えば、新米教師として勤務しながら、「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(文検:ぶんけん)を受けなければなりませんでした。

(写真は昭和初期の文検・漢文科受験参考書)

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 この「文検」がどれほどの難関であったかというと、明治三十五年(一九○二)前後では全教科を通じての合格率が十%前後、数学に至っては、三十四年と三十六年にそれぞれ一人の合格者が出ただけ。三十八年は一三二名が受験しながら合格者は「0」という、この上なく狭き門でした。
 一方、有資格教員はどのようにして免許状を取得したのでしょうか。
 明治四十年(一九○七)当時、わが兵庫県には九校の県立中学校(姫路、第一神戸、第二神戸、豊岡、洲本、柏原、龍野、小野、伊丹)がありましたが、明治40年の「兵庫県学事年報」で中学校別に教員免許の取得状況を調べてみると、やはり目的学校である高等師範出身者が全体の約三割を占めて最も多いことが分かります。それに、検定合格による資格取得者が全体の四割を超えていることも特徴的です。中には小野中学校のように、検定合格者が八割を占めている学校もありました。

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 こうした実態があったことについて、小野一成氏は「坊っちゃんの学歴をめぐって」(『漱石作品論集成第2巻』、桜楓社、一九九二年)において、「(坊っちゃんのような)いわば学歴社会の枠外の人々が中学教師となり、その人たちによって学歴社会の要員(エリートのこと)が送り出されていったのはいささか皮肉だが、誠におもしろい現象であった。」と指摘しています。

 第2章 参考文献 

*印は国立国会図書館デジタルコレション

 

 *『日本帝国文部省年報 第三十三(明治三十八~九年)』

 文部省大臣官房文書課 一九○七年
 *『全国中学校に関する諸調査』

 文部省普通学務局 一八九五年
 *『明治四十年兵庫県学事年報』 

 兵庫県  一九一一年
  小野一成「坊っちゃんの学歴をめぐって」

 『漱石作品論集成第二巻』 桜楓社 一九九二年