往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

3  「四国辺の中学校」 その1

   ぶうといって汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕(こ)ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。尤(もつと)もこの熱さ(ママ)では着物はきられまい。(中略)磯に立っていた鼻たれ小僧をつらまえて中学校はどこだと聞いた。小僧は茫(ぼん)やりして、知らんがの、といった。気の利(き)かぬ田舎ものだ。猫の額ほどな町内の癖に、中学校のありかも知らぬ奴があるものか。(二)

    この部分から、坊っちゃんは二学期の初めに着任したということがわかります。
 「四国辺の中学校」のモデルとなったのは、言うまでもなく松山中学校です。ただし、それは明治三十八年と仮定した場合の名称で、漱石が在任した十年前は、愛媛県尋常中学校」という校名でした。
 同校は伊予松山藩の藩校明教館以来の伝統を誇る名門校です。後身である愛媛県立松山東高等学校のホームページから略年表を抜粋してみました。

文政十一(1828) 藩主、松平定通、二番町に明教館を設立
明治五(1872)旧明教館に松山県学校(松山学校)を開設
明治六(1873)英学舎と改称
明治八(1875)(県立)英学所と改称
明治九(1876) 愛媛県変則中学校と改称、俗称北予学校と称する
明治十(1877) 愛媛県北予変則中学校と改称
明治十一(1878)愛媛県松山中学校と改称(この年を創立年とする)明治十七(1884)愛媛県第一中学校と改称
【第一次中学校令】 明治十九年四月十日勅令第十五号
明治二十(1887)愛媛県第一中学校廃校
明治二十一(1888)(私立)伊予尋常中学校開校
明治二十五(1892)(私立)伊予尋常中学校廃校
明治二十五(1892)五月十六日,愛媛県尋常中学校開校
※明治二十八(1895)四月、夏目金之助、英語科嘱託教員として着任
明治二十九(1896)東予(西条)・南予宇和島)に分校開校
【第二次中学校令】明治三十二年二月七日勅令第二十八号
明治三十二(1899)愛媛県松山中学校と改称.、東予南予両分校独立
明治三十四(1901)九月一日, 愛媛県立松山中学校と改称
大正五(1916)持田町現在地に新校舎竣工、二番町より移転完了
昭和十三(1938)創立50周年記念式典挙行
【中等学校令】昭和十八年勅令第三十六号
昭和二十三(1948)学制改革により愛媛県立松山第一高等学校となる
昭和二十四(1949)愛媛県立松山東高等学校と改称

昭和五十三(1978)創立100周年記念式典挙行
平成二十一(2009)創立130周年記念式典挙行

 

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明治二十四年(一八九一)二番町時代の校舎(全国知事会HP中の愛媛人物博物館紹介記事より,http://www.nga.gr.jp/pref_info/tembo/2011/01/post_1221.html

 

藩校と中学校

    松山中学校がそうであるように、旧幕時代の藩校を淵源(えんげん)とする中学校は少なくありません。
 ただ、教育内容その他の連続性という点から見ると、大きな断絶があった訳ですから、やはり単純に前身校とは言えないはずです。ほとんどの沿革史では「前史」として藩校時代を記述しています。
 そのあたりを「学制百年史」は次のように説明しています。

   幕末の藩校は各藩の藩士教育機関として充実・整備され、同時にその教育内容はしだいに近代化の過程をたどっている。(中略)また学習段階による等級制も成立し、教育内容に洋学関係の科目を加えるなど、近代学校の萌芽を見ることもできる。
 藩校は廃藩置県後廃止されたが、学制発布後の中等・高等諸学校の直接または間接の母体となった。(後略)             
「 一 幕末期の教育・近世の教育から近代の教育へ・武家の教育」
文部科学省ホームページhttp://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317577.htm

   各府県で初めて「○○県尋常中学校」と称した、いわゆる「一中」と呼ばれたような学校の沿革を見ていくと、その淵源を藩校としいる高等学校が中部地方から西日本にかけてかなり見られることがわかります。そのいくつかを次に挙げてみましょう。

現在の高等学校名(旧制時代最後の校名・藩校名・藩校創設年:同西暦)

福井県立藤島(県立福井中学校・福井藩校明道館・安政二:一八五五)
愛知県立旭丘(県立第一中学校・尾張藩洋学校・明治三:一八七○)
滋賀県彦根東(県立彦根中学校・彦根藩校稽古館・寛政十一:一七九九)
岡山県立朝日(県立岡山第一中学校・岡山藩仮学館・寛文三:一六六六)
鳥取県鳥取西(県立鳥取第一中学校・鳥取藩校尚徳館・宝暦七:一七五七)
福岡県立修猷館(しゅうゆうかん)(福岡県立中学修猷館福岡藩修猷館天明四:一七八四)
佐賀県立佐賀西(県立佐賀中学校・佐賀藩弘道館天明元:一七八一)

 この他にも、単に地名を冠したのではなく、藩校の名を「襲名」した高等学校があります。よく知られているのは以下のような学校でしょうか。

現在の高等学校名(旧制時代最後の校名・藩校名)

山形県米沢興譲館(県立米沢興譲館中学校・米沢藩興譲館
愛知県立時習館(県立豊橋中学校・吉田藩校時習館
広島県立福山誠之館(県立福山誠之館中学校・福山藩校誠之館)
福岡県立伝習館(県立中学伝習館柳河藩伝習館
福岡県立育徳館(県立豊津中学校・小倉藩校育徳館)
福岡県立明善(県立中学明善校・久留米藩校明善堂)

 「藩校から明治の中学校への連続性」について神辺靖光氏は、「実際の連続性よりも意識上の連続が強い」と述べています。(国士館大学文学部人文学会紀要 (18)、一九八六 )
 こうした「襲名」の背景には、伝統校特有の自負とともに、由緒ある校名を残したいという強い願望があったことと思われます。

  #  今、全国には国公私立合わせて五千近い高校がありますが、藩校によくある「館」のつく学校が70近くあります。地域別では九州が全体の三分の一を占めています。

 その多くは「平成」の間に創設されたり、改称されたりしているようです。

 ブームというわけではないでしょうが、私立だけではなく、公立高校にも「○○館」という校名が見られるようになってきました。

 公立校で印象に残った校名としては、「富岳館」「清流館」(静岡県立)、「懐風館」(大阪府立)、「致遠館」(佐賀県立)「爽風館」(大分県立)といったところが挙げられます。