往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

2  「中学校の先生」その1「中学校教員の地位・養成」

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 明治29年4月、愛媛県尋常中学校(後の松山中学校)卒業記念写真。前から3列目の左から2人目が漱石(29歳)。写真/県立神奈川近代文学館所蔵

 やはり、明治の先生がたは威厳がありますね!それに生徒たちもえらく大人びて見えます!!

 

      中学校教員の地位・養成  

 『日本帝国文部省年報第三十三(明治三十八~九年)』によると、坊っちゃんが「四国辺のある中学校」の数学教師として赴任したと仮定した明治三十八年(一九○五)当時、全国に官公私立合わせて二百五十九校の中学校がありました。
 教員数は五,○八四名、生徒数は一○四,五五一という数字が挙がっています。進学率については、小学校卒業生の人数から推計すると、一%程度ではなかったかと思われます。この数字から、その当時の中学生がどれほどエリートであったかがよく分かります。
 また、中学校自体も、県勢のそれほどかんばしくない地方で、専門学校以上の学校が未設置のところでは、師範学校(中等学校程度であった)は設立されていましたが、実質的に「県内の最高学府」であり、赤シャツ教頭の「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして~」(六)という言葉の通り、中学校教員は社会的威信の高い職業と見られていたのです。
 後で見ますが、給与面でも優遇されていたために、小学校教員の中には、「文検」(文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験:ぶんけん)合格をめざして、受験勉強に励み、キャリアアップをめざす人たちが多くいたと言われています。
   ここでは、当時の中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成と資格取得について簡単に整理してしておきたいと思います。

(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所

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   東京高等師範学校(現在の筑波大学)

 (2)検定による資格取得
  ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
    哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
   ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式) 文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験