「教育史的事象やその背景をよく描写していると思われる文学作品」をテキストに、大学で教育史の講義をされた古屋野素材氏は、「中学校と師範学校の喧嘩」について、以下のように「教育制度史的」に分析をされています。少し長くなりますが、引用してみます。
『坊ちゃん』が発表された時代の中学と師範学校は生徒の年齢段階の重なる部分を持つとともに、生徒どうしが対立感情を持ちやすい関係構造にあった。すなわち、明治二十七年~ 昭和十七年の期間は,細かな異動はあるものの、初等教育修了後に更に高度な学習を継続しようとする男子にとっては、小学校六年課程→中学校(五年)のコースと、小学校八~九年課程→ 師範学校(四~五年)のコースがあり、学年段階において、両者で二~三年の重なり合う部分があった。
また、各府県庁所在都市には、その府県を代表する府県立中学校が置かれて、域内の秀才を集めて、高等学校を始めとする上級学校への進学経路としての地位を確立しており、一方師範学校も各府県には最低一校は設置され,その府県の初等教員の養成を一手に担っていた。
中学校への進学に際しては、学力に加えて、当時の一般家庭の所得水準からすれば決して安くはない学費を長期にわたって負担し得る家計の経済力を要した。したがって、勉学の志を持ちながら、中学での就学を継続し得るだけの家計のゆとりが無い少年(中略)にとっては、原則として全寮制で学費免除・衣食支給という、公費による丸抱えの師範学校は願ったりの進学先ではあったものの、なんといっても教員養成を目的とする学校であるため、それに関連する訓練的な授業科目が多く、(中略)中学の代替物とするには両者の差異は大きく、中学への進学を諦めて師範学校に進んだ生徒(経済的理由の他に、長男であるために、弟達は中学に進んで高校や大学への夢をふくらませることが許されても、自分は地元に残って両親や家屋敷を守らねばならないという事情の者もいた)にとって、中学に対する屈折した感情が拭いされないことは想像に難くなく、しかも、県勢の目覚ましくない所では、明治期には中学と師範学校のみが県内に並び立つ最高学府である場合も少なくなく、両者の対立意識は各地で根強かったことが、様々な喧嘩や紛争の記録により知られている。
(愛媛県師範学校、http://www.sakanouenokumomuseum.jp/gis/photo/055.html)
「地方税の癖に」と中学生が怒鳴りますが、これは確かに「師範学校令」(明治十九年 勅令第15号)に次のように規定されていました。
第四条 高等師範学校ノ経費ハ国庫ヨリ尋常師範学校ノ経費ハ地方税ヨリ支弁スヘシ
第九条 師範学校生徒ノ学資ハ其学校ヨリ之ヲ支給スヘシ
一方の中学校(尋常中学校)はどうかというと、実は初め各府県に一校置かれた尋常中学校も、やはり「地方税」により設置・運営されていたのです。
第六条 尋常中学校ハ各府県ニ於テ便宜之ヲ設置スルコトヲ得但其地方税ノ支弁又ハ補助ニ係ルモノハ各府県一箇所ニ限ルヘシ
「中学校令」 (明治十九年 勅令第15号)
(愛媛県尋常中学校、https://serai.jp/hobby/49965)
ですから、この中学生たちは、師範学校が地方税によって設立・運営されていることではなくて、「おまえたちは、授業料を払っている自分たちとは違い、地方税(公費)丸抱えじゃないか!」と蔑(さげす)んだような言葉を投げかけている訳なのです。両者には、家庭の経済的力に明らかな差異があり、それが生徒たちにも自覚されていたことがうかがえます。
さて、「公費による丸抱えの師範学校」とありますが、どの程度であったのでしょうか。
明治十九年六月四日、文部省訓令第四号として「尋常師範学校男生徒 学費支給二関スル件」が発せられています。以下はその抜粋です。
一 食物 一 被服 一 日用品 一 修理及湯浴
一 一週間手当
第四項 目用品ハ左ノ六種トシ時ノ需要二応シテ適宜之ヲ給スヘシ
一 墨 墨汁 一 紙 半紙 洋紙 画用紙等
一 筆ペン ペン軸 石筆
一 鉛筆 常用 画学用 一 石油 一 炭第六項 一週間手当ハ毎土曜日二於テ某日在学ノ生徒一人二付キ金十銭ヲ給スヘシ
第八項 夏期休業中ハ生徒二食費及一週間手当ヲ給シ帰郷セシムヘシ
第九項 発病ノ生徒二療養ヲ命シタルトキハ其費用ヲ給スヘシ
当初は、各種の「手当」や「医療費」まで支給されていました。もちろん、これは卒業後に一定年限の服務義務(当初は10年間)があってのことでした。