往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

1 その3「坊っちゃんは優等生!?」

   坊っちゃんは優等生!?

  三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑(おか)しいと思ったが苦情をいう訳もないから大人しく卒業して置いた。
   卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入(い)る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたが実をいうと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。尤(もつと)も教師以外に何をしようというあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が祟(たた)ったのである。(一)

   当時の読者たちは、この記述には違和感を覚えたのではないでしょうか。
 というのも、「入学は易くとも、卒業は難しい」という点において、この物理学校の右に出るところはなかったからです。 
  『東京物理学校一覧』(昭和十一年・一九三六)で確認してみると、明治三十五年(一九○二)に入学した「坊っちゃんの同期生」二○八人のうち、三年後の明治三十八年(一九○五)七月に卒業できたのは、わずかに二十五人でした。なんと八人に一人という低い「卒業率」なのです。
 坊っちゃんは作品の中で、成績がよくなかったことを自慢している(?)ふうに見えますが、実はかなりの優等生だったのですね。
   「卒業してから八日目に校長が呼びに来」て、「四国辺のある中学校で数学の教師が入る」から、「月給は四十円だが、行ってはどうだ」と、かなりの好条件で就職の斡旋をしてもらっています。これも坊っちゃんが優等生であったことの明白な証拠と言えるのではないでしょうか。
   「学校法人東京理科大学の沿革」(同大学ホームページ)には、「明治三十七年春には卒業生総数は三六九名に達し、その内七三%に当たる二六八名が教職へ、四七名が技術者として実業界へ進んでいる。」とあります。
 漱石坊っちゃんを、物理学校出の数学教師としたのも、自身が同校の設立メンバーである桜井房記や中村恭平と親交が深かったこともあるのでしょうが、何よりも、同校出身者の多くが中等教育界に進出しており、そのことが広く世間に知られていたからだと思われます。

 

第一章 参考文献 

*印は「国立国会図書館 デジタルコレクション」
 

*『東京府学事第二十五年報』  東京府学務課 一九○九年
 村木晃『坊っちゃんの通信簿』 大修館 二○一六年
*文部省『全国中学校に関する諸調査』 文部省普通学務局 一八九五年
 佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』 小学館  一九八七年
*『東京府立第一中學校創立五十年史』 一九二九年
 東京理科大学ホームページ「学校法人東京理科大学の沿革」        (www.tus.ac.jp/documents/pdf/h22/wp22)
*少年園編纂『明治三十五年東京遊学案内』 内外出版協会 一九○二年
*『東京物理学校一覧』 東京物理学校 一九三六年