往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

50年前の今頃は・・・

ちょうど50年前といえば、昭和49年(1974)2月のことで、高校3年の3学期も自宅学習期間に入っていました。
既に1月から自主的に(?)自宅学習に入っていた級友もいましたが、私は登校も生活のリズムを維持するには良いかと学校に行っていたように思います。

私などが現職の頃は、1月は共通一次センター試験の問題演習に明け暮れていましたが、センター試験が開始になる5年前の「1期校・2期校」の世代ですからそれもなく、いったい何をしてたのか、まさに「往事茫々」と言ったところです。

関西の私立大学は、2月上旬が試験のピークで、私も県内のK学院の法学部に出願していましたので、一応それに向けて赤本などで対策は講じていました。
ところが、試験日の数日前に電車に乗って下見に行って風邪をひいたのか、当日の朝は熱発で起きられず、母親が用意してくれた弁当も無駄になりました。


今、K学院が「滑り止め」だったと言うと、「そんなに出来が良かったのか?」と思われそうですが、半世紀ほど前の国立大(地方ですが)第一志望者にとっては、その程度の受け取り方でした。(たぶん、当時権威のあった旺文社模試の判定も結構良かったと記憶しています)

受験料(国立の場合3千円)の出費を惜しんだわけではありませんが、出願校は私立1、国立1期校、公立2期校の計3校でした。
今考えてもおかしいのは、学部がバラバラだったことです。私立・法学部、1期校教育学部(教員養成でない)、2期校外国語学英米語学科。



担任をしていた頃に、こんな出願の仕方をする生徒がいたら、一応指導はしただろうなというような組み合わせでしたネ(笑)

 

あと、もしK学院を無理して受けて不合格にでもなっていたら、その後ずっとK学院出身者に対してコンプレックスを持ったかもしれません。(同僚には結構出身者がいましたので)
合格した1期校(写真・中)は、苦手な理科が課されず、社会も1科目、そして何よりも数学がそれほど難しくないというのがピッタリでした。
ただ、そういう4教科の「私大3教科+数学ⅠⅡB」は全国でも数少なく、30人定員のところに200名ほどの出願者がいて、国立には珍しく6~7倍の高い志願倍率だったように記憶しています。

 

そういうわけで、2月と言えば自宅学習の期間。多くの受験生が滑り止めを確保する中、まだ一つも受験を経験しないまま、25日の卒業式を迎えるという、不安な日々を送っていたのがちょうど50年前の今頃でした。

結局、大学受験では後にも先にも1校受けただけでした。当時でも珍しかったと思います。