往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

コラム25 「進学競争④」

■『受験生の手記』に見られる受験競争をめぐる諸相(つづき)

 

  ○予備校通いと参考書
 コラム23の最後に取り上げたことですが、3月に中学校を卒業した受験生は上京して、7月の入試まで予備校に通うということがよくありました。主人公の健吉もその一人です。(高等学校と帝国大学の七月入試、九月入学というパターンは大正9年まで続きました。)

 

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 (一高入試当日、服装が時代と季節を感じさせます。竹内洋『立志・苦学・出世』より)

 南日の英文解釋法は、大抵の人が少くとも五囘は讀み返すと云ふから、もうそろ/\讀み始めなければなるまい。去年はあれを一囘、それもやつと讀んだだけだつた。
  けれども閑暇だから、豫備校へだけは行くことにした。そこでの講義は、實力をつけると云ふよりも、如何に能力を活用すべきかを教へる、what よりも寧ろ how の方に重きを置いた。學校としては實に變則なものだと思つた。併し講義は面白かつた。漫然と聞き流してゐても面白かつた。豫備校は遊び半分に行くべき處だ。それでも十分效用はある。知らず識らず受驗生の頭腦を刺戟する、狡猾にする、そして最もよい事には、動もすれば不規則になり易い受驗生生活に、先づ學校らしい體裁を備へた、一つの規律を與へる機關となる。――兎に角私に取つては、豫備校は一つのいゝ暇潰し場所でなければならなかつた。

 「閑暇だから、豫備校へだけは行くことにした」と暢気なことを言っていられる身分ではないと思うのですが、それはさておき、この予備校について。
 和辻哲郎も『自叙伝の試み』の中で「中央大学の予備校」と言っていましたが、もちろんこれは「中央大学に入るための予備校」ではなく、「中央大学が経営する予備校」の意味です。

 明治40年頃の神田は「予備校の街」と評されたほど、多くの予備校がありました。中央大学のみならず、日本大学明治大学東洋大学、法政大学なども予備校を経営していました。
 官立学校をめざす受験生のための学校を私立大学が経営し、講師の多くも官立学校教員という、変則的で矛盾した状況が生じていたのです。理由の第一は、私立大学の慢性的な財源難であったと言われています。
    引用文のはじめに「南日の英文解釋法は、大抵の人が少くとも五囘は讀み返すと云ふ」とあります。
 この「南日」は南日恒太郎(なんにち つねたろう、明治4年昭和3年:1871~1928、明治から大正にかけての英語教育者。旧制富山高等学校初代校長のことで、『英文解釈法』(明治38年:1905)や「和文英訳法」(大正3年:1914)は、当時最も人気のあった英語のベストセラー参考書でした。

 

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  ○受験生の神経衰弱

    あれは確か上京して三日目位の或る日曜だつた。もう切迫して來た試驗期を前にした私は、室馴れて落着く迄もなく、机に噛りついてゐねばならなかつた。私はその日も朝から不安と焦躁とに襲はれながら、まだ調べ切つてゐない物理の頁を澁々飜してゐた。諳記物はまだ殆んど一つも手を着けてゐなかつた。坐つてゐるのさへ堪らない程、暗澹たる不安に浸つて來た。けれどもどうにもしやうが無かつた。(中略)

  弟は私には平氣で自分の勉強をぐん/\續けてゐる。それを見てゐると、私は嫉妬に似た恐怖さへ感ずる。何だか弟と同じ室にゐるのが、私には厭で堪らなくなつて來た。
  ひよつとすると私は神經衰弱かも知れない。――

 蒸し暑い時期に姉の家とは言え、慣れない環境での受験勉強、そこへ優秀な弟の上京とくれば、ナイーブな主人公が心身に不調を感じるのも無理からぬことではあります。
 今で言うところの「受験うつ」でしょうか。この「神経衰弱」とか「ノイローゼ」などの言葉も最近ではすっかり耳にしなくなりましたね。
 こうした精神的な疾患に対して、明治時代には「脳病薬」ということで、民間薬が発売されていました。
 「記憶力増進」を謳った広告が受験雑誌などによく掲載されていたということです。

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 (脳病薬の代表的なもの、明治41年の雑誌掲載広告)