往事茫々 昔のことぞしのばるる・・・

古希ちかくなった暇なオジさんが、あれこれと折にふれて思い出したことや地元の歴史などを書き留めていきます

中山義秀『厚物咲』に描かれた「心身を病んだ明治の苦学生」から・・・・

中山義秀(ぎしゅう)の短編小説。『文学界』1938年(昭和13)4月号に掲載、同年9月、小山書店刊の同名の短編集に収録。吝嗇(りんしょく)で守銭奴である片野老人は、片意地に生きたすえ、陋屋(ろうおく)に縊(くび)れ死ぬが、その足下には片意地の咲かせたみごとな菊の厚物咲が横たわっていた。この片野の数奇な運命をその老友瀬谷が物語る。ここに人間の奇怪な業(ごう)が描写されている。「老人が敗残の人生に耐え、居直つて、菊花に化身してみせるところに、独特の哲学」(瀬沼茂樹)、芸術が認められる。第7回芥川(あくたがわ)賞受賞。[山崎一穎]

初版本

作品の内容は、このブログが詳しいです。

はてなブログ「書にいたる病」

rukoo.hatenablog.com

正月も三日目。年末に一年ぶりに帰省していた娘も、朝早く暗い中を家人が福知山線新三田駅まで送っていきました。
 午前中、年末の図書館開館最終日に借りた『芥川賞全集 2』(1982・文芸春秋)の中から、タイトルの作品を読んでみました。
 別のブログ「小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ」 https://sf63fs.hatenadiary.jp/の材料探しをしていて、長谷健『あさくさの子供』(第9回芥川賞)はどうかなと借り出していた本ですが、どうも素材としては適切でないと放置していたものです。
この『厚物咲』(初めは意味不明でした)は、何時頃からか作品名だけは知っていましたが、読むのは今回が初めてです。

主な登場人物の二人は幕末に生まれたという設定ですから、70歳とは言っても令和の今から見ると、80代半ばの感じではないかと思うのですが、例によって主要なストーリーとかテーマなどにはあまり関係のないところに目がとまり、関連した思い出がよみがえってきました。

 

以下が目にとまった箇所です。

瀬谷という今は路地で代書人(現在の司法書士行政書士)を細々と営む老人は、若い頃東京で代言人(弁護士)の書生として住み込み、身体をこわしてまで弁護士試験をめざして苦学した数年間の生活がありました。

 

過労が瀬谷をおとろえさせた。そのため彼は女性に無関心であることができた。彼の顔の皮膚は灰のように濁っていた。眼は飛び出して鋭かった。頭髪は抜け落ち、地肌が白くすいて見えた。一度二度三度と弁護士試験の数を空しく重ねてゆくにしたがって、彼にとり試験は業苦に近いものとなった。恐怖と不安のため彼は受験場では全くの痴呆者だった。日々暗誦しつづけた条文の一行すら思い出すことができなかった。彼は脂汗をたらして時間一杯を最後まで苦しみ、とうとう白紙を出した。そして外見だけは昂然と場外まで歩いて来て不意にばったりと倒れた。

 

苦学生と、今では死語になった若者の、心身ともに病んだ悲惨な状況が描かれています。明治・大正の東京には程度の差こそあれ、無数の若者が心身を蝕まれたり、夢破れたりした末にやむなく帰郷したり、都会の片隅に埋もれていったことでしょう。

 

さて、思い出したのは大学時代3、4年生の頃だったでしょうか。昭和51、2年(1976、1977)の頃のことです。
九月の前期試験。下宿では暑すぎて勉強する気になれず、土日も開いている大学図書館(わが教育学部の隣にありました)の広い閲覧室(?)で付け焼き刃の勉強をしたことが何度かありました。

移転前の広大図書館(黄色の矢印、正面は前回も取り上げた理学部一号館)
ブログ「移転前の広島大学」より

よく見かける真面目そうな(昔の広大は世間からそういうイメージでよく見られていましたね)男子学生の横を通り過ぎがてら、ふと広げてあるノートに目をやると、そこに意味不明の直線や曲線、円などがボールペンで書き殴ってあるのが眼に入りました。(別に新しいボールペンの書き味を試している風ではありません・・・)
机上の書物がわかれば、何が目的の勉強かがわかったでしょうが、確かめる余裕はありませんでした。

当時の広島大学政経学部(後に法と経済に分離)という国立には珍しい名前の学部が本部キャンパスにありました。

この人は政経学部の学生か院生で、司法試験や国家公務員上級職(当時)をめざしていて、作中の人物と同じく気の毒にも心を病んだ人(昔はノイローゼと言いました)なのかなと、そのときは思ったものでした。

 

国木田独歩『忘れ得ぬ人々』という名短編がありますが、ほんの一瞬ちらっと見ただけのその人物のことが40数年経った今、上の部分を読んだときに思い出されてきました。